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デジタルマーケティング業界で独自のブランドを確立しているネットイヤーグループの社長兼CEO(最高経営責任者)の石黒不二代氏。子連れで米スタンフォード大学のビジネススクールに留学するなど、思い切った人生選択で現在のキャリアを築いた。日本に米ヤフーを紹介、セブン&アイ・ホールディングスのオムニチャネル戦略にも参画した。「ネット伝道師」の原点はどこにあったのだろうか。

人生を振り返って後悔していることって、あまりないんです。大学を卒業してすぐに就職できなかったり、子供を産んですぐに保育園が見つからなかったりしても、その都度、自分なりに考えて乗り越えてきました。

ただ、乗り越える際の考え方は「ちょっと変わっているね」と言われます。幅広い選択肢を持っていたからでしょう。自分としてはリスクテークしているつもりはないのに、他人からみると思い切った選択をしているように見える。その原点はどこにあるかといえば、やはり、子供のころでしょうね。育てられ方がだいぶ変わっていましたから。

木箱を組み立てる音を聞きながら育った

ネットイヤーグループ社長兼CEOの石黒不二代氏

ネットイヤーグループ社長兼CEOの石黒不二代氏

生まれたのは愛知県一宮市です。一宮は当時、街中が繊維業で占められていました。実家はその繊維を輸出するための木箱を作っていたんです。いわゆる製函(せいかん)業です。

子供のころはいわゆる「ガチャマン」の時代で、「織り機がガチャンと鳴るたびに1万円が入る」と言われるくらい、繊維業は活気がありました。その繊維業者を相手に商売していた実家も比較的裕福で、父はまあ、ボンボンだったと思います。

事業を起こしたのは祖父で、父は2代目でした。実家のすぐ横に工場があって、その前に木材がわーっと干してある。その木材の匂いと、箱を組み立てる時のガンガン鳴る音を聞きながら育ちました。そんなに大きな会社じゃありません。従業員は20人くらい。残業になるとみんなでカツ丼をとって食べたりするくらいの、アットホームな会社です。

嫁いだ母は典型的なお嬢様育ちの、ものすごくおとなしい人でした。受動的で、とにかくしゃべらない。朝から晩まで黙っていてもまったく平気な人だったんです。子供を連れて外出するような人でもなかったから、私はだいたい家で本を読んでいました。

勉強はできましたが、社会的な適応力には欠けていました。IQ(知能指数)がすごく良かったらしくて、小学校1年生の時に入学と同時に学級委員長に任命されたんですが、その重圧に耐えかねて自律神経失調症になっちゃったんです。学校に行くまでも、着いてからも、1日中、ワーワー泣いていていました。登校拒否状態にもなりましたが、それでも親は「学校に行け」とは言いませんでしたね。

願えば何でも現実に、自己責任に恐怖する

私のやることなすこと、絶対に反対しない両親だったんです。ピアノ、琴、習字となんでも習わせてくれましたし、「やめたい」と言えばすぐにやめさせてくれた。例えば、こんなことがありました。

ある日、「ピアノ行きたくない」と母に言った。怒られるかと思ったら、母はすっくと立って先生にこう電話したんです。「娘が肺炎にかかりましたので3カ月休みます」。3カ月後、「どうする?」と母に聞かれたので、「やめたい」と言ったら、この時も何も言わずに「石黒ですがやめさせていただきます」と先生に電話をしていました。

さすがに悩みました。途中からは怖くもなりました。だって、自分の思うことがすべて現実になってしまうんですから。

父は父で「なんでも好きにすればいいじゃん」というタイプ。相談しても、答えはいつも決まって「ペコの人生だから、ペコが考えて決めなさい」。そう、子供のころは「ペコ」って呼ばれていたんです。不二家のペコちゃんのペコ。

親が自分の判断にまったく口出しをしないということは、すべてが自己責任ということじゃないですか。これは恐ろしいことだなと。そう気づいてからというもの、なんでも自分で調べ、メリットとデメリットをよく考えてから決断するようになりました。

高校生のころ、家業をたたむことに

「不二代」という名前は父がつけたんです。当時、急成長していた不二家にあやかり自分の会社も成長するように、と願って。

けれど繊維業全体が落ち込んで、父の会社も私が中学生のころからだんだんと傾きはじめ、高校生になったころにはもう、オーダーが入らなくなっていました。業態転換することができないまま、結局は事業をたたむことに。借金はあったみたいですけれど、一方で預金もありましたので、相殺すればトントンという状態。父も母も働きに出ることになり、私は東京の大学に進学するのを諦めました。

「あの時、父はどうすればよかったんだろう」と今でも時々思います。繊維業が落ち込んでも、箱の需要がなくなるわけではない。ただし、得意先は変えていかないといけなかったでしょうし、材質も変える必要があったでしょう。

当時、うちが作っていた木箱は丈夫だったので「どうしてこんなに丈夫に作る必要があるの」と父に聞いたことがあるんです。その時、父は「輸出先の東南アジアはまだ治安が悪くて、丈夫じゃないと中身を持っていかれちゃうから」と言っていました。頭で考えるよりも、実際に転換していくのはやはり難しかったんだろうなとは思います。

外部環境が大きく変化していく時代に、会社をどうやってサバイブさせたらいいのか、どうすれば転換できるのかなということは昔からぼんやりと考えてはいました。けれど、大学を卒業してすぐに起業しようとは思わなかったですね。

男女雇用機会均等法が施行される前でしたから、四年制大学を卒業した女子の就職先なんてほとんどありませんでした。周りにいる男の子たちがみんな難なく就職していくのに、女性であるというだけで応募の機会さえもらえないことに大きな理不尽を感じて、「だったら、なんとしても大企業に入ってやるぞ」と思っていました。

あまりに門戸が狭かったから、逆に燃えちゃったんでしょうね。起業家になるという選択肢は当時、まったく考えもしませんでした。

石黒不二代氏(いしぐろ・ふじよ)
愛知県生まれ。80年、名古屋大学経済学部卒。ブラザー工業に入社し、海外営業を担当。結婚を機に退社して東京へ。87年、スワロフスキー・ジャパンにマネジャーとして入社。31歳で長男を出産。92年、米スタンフォード大学経営大学院に入学し、MBA(経営学修士)取得。94年、シリコンバレーでハイテク系コンサルティング会社を起業。99年、ネットイヤーグループの創業に参画し社長兼COO(最高執行責任者)に。同社の日本進出に伴い帰国し、2000年より現職。2008年、東証マザーズ上場。

(ライター 曲沼美恵)

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