江戸っ子気質の父とは別の道に 山本晋也さん
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は映画監督の、山本晋也さんだ。
――お父さんは大手ゼネコン(総合建設会社)の建築士だったそうですね。
「江戸っ子気質で、粋とは何かを説いていました。帝国ホテルで正装してごちそうを食べた帰りに、庶民的なかいわいの焼鳥屋に一緒に行ったときのこと。汚れた手は『店ののれんで拭いていい』とやってみせ、『人間はピンとキリを知ってりゃいいんだ』と教えてくれました」
「教育には厳しかったです。祖母と母、3人の妹の女系家族でしたが、5歳ごろから長男としてしつけられ、7歳で大人同士の会話にもついていっていました。夕方おやじが帰ってくるまで男は私だけ。まき割りなどもし、おやじの役割も果たしていました」
――お母さんの印象は。
「女学校卒で和文タイプライターでした。日本のOLのはしりですね。お嬢様育ちだからおやじの江戸っ子気質にほれたんじゃないですかね。筆が立つ人で、巻紙に長い手紙をサッと書いていました。小説が好きで、樋口一葉がお気に入り。不幸な境遇にもめげず才を発揮した、素晴らしい人だと話してくれました」
――お父さんの薦めもあり早稲田中へ進学しましたね。
「建築家という同じ道を歩んでほしかったようです。早稲田中・高を経て早大理工学部建築学科(当時)に入るものと。何がしたいというのはなかったのですが、サラリーマンにだけはならないと思っていました。家ではいつもおやじの上司の名前が飛び交ったり、上司の家にお歳暮を持って行ったり。そんなことに嫌気していたんです。高3の春、映画や演劇が学べる日大芸術学部のキャンパスを見学。ここだと決めました」
――意志を貫き日大に入学します。お父さんの反応は。
「合格を直接伝えてはいないのですが、烈火のごとく怒ったそうです。その日から私とは一切口を利かなくなりました。入学金の支払いに困り、親戚に出してもらいました。私の進路選択のせいで、我が家のメンツがつぶれたと感じていたようです」
――その後、映画監督になって活躍されました。
「母は私の仕事を理解してかどうか分かりませんが『なんでもいいから一番におなり』と言っていました。母の死後、文机の引き出しから私がロマンポルノの監督として売れ始めた時の小さな新聞記事の切り抜きを見つけました。ほろっときましたね」
「おやじは私が大学2年の時に亡くなりました。まさか私がピンク映画の監督になるとは思わなかったでしょう。一緒に自分が撮った作品を見たかったですね。口を利かないわけにはいかないですから。『修業が足んねぇよ。まだまだ女心が分かってねぇな』なんて言ったでしょうね。男性ファンは多いですが、たった1人の父親に見せられなかったのは悔しいですね」
[日本経済新聞夕刊2016年5月17日付]
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