スポーツ用語翻訳で大車輪 ルール・技の辞典刊行
本多英男
スポーツ番組で外国人選手の通訳付きインタビューを見ている時、「ちゃんと通訳に選手の真意が伝わったのだろうか」と思うことはないだろうか。スポーツは競技によって特殊な用語が使われ、語学の専門家といえども即座に意味を理解するのは難しい。通訳泣かせといわれるゆえんだ。
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きっかけは長野五輪
選手や通訳、研究者らが正確な用語でコミュニケーションを取れればスポーツの現場で役に立つのではないか。そう考えて25年ほど前から、複数の外国語でスポーツ用語を紹介する辞典の編さんを始め、ライフワークとして取り組んできた。
語学に興味を持ったのは、高校の体育教師としてバレーボールの指導をしていた1960年ごろ。当時、バレーはソ連が先進的なトレーニングを導入しており、その方法を取り入れるためにロシア語の独学を始めた。
64年の東京五輪では女子バレーの試合で採点係を務め、ソ連との決勝では日本の歴史的勝利を目の当たりにした。この時はソ連代表のチェーホフ監督の試合中の言葉がある程度理解できるまでになっており、東京五輪後には彼のバレー指導法の本の翻訳も手掛けた。
こうした過程で、海外には数カ国語のスポーツ用語を比較対照できる辞典があることを知った。日本に同様の辞典はなく、いつか作りたいと考えていたところ、冬季五輪が98年に長野で開催されることが決まった。
ちょうど定年を迎えた時期でもあり、冬季五輪の9種目の用語を日本語、英語、ロシア語、ドイツ語の4カ国語で紹介する辞典に取り組んだ。知らない競技も多いので、まずはルールブックを読み、頭にルールをたたき込む。
日英、日ロ、日独のほか独英、独ロの辞書も用意し、各言語で書かれたスポーツ本からルールや道具、競技場に関する記述、単語を抜き出して翻訳していった。1競技につき、だいたい200~300語にのぼった。
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「東京」に向け新刊
作業は想像以上に大変だった。ドイツ語は大学で学んだだけ。英語と文法や単語が似ているので何とかなると考えていたが、甘くなかった。またロシア語の文字や文法構造は英語やフランス語とは大きく異なるので、他の言語と比べて格段に長い訳語になりがちだ。
苦労を重ね、96年に刊行したのが「冬季オリンピック四カ国語辞典」。
五輪の一般用語に加え、スキー、スピードスケートなど競技別の用語約5千語を並べた。
この調子で次は夏季五輪と思ったが、夏季は競技追加やルール変更が多い。すべて固まるのを待とうと、作業をストップ。代わりに2002年の日韓ワールドカップに合わせ、日・英・仏・独・ロ・西・韓の7言語を網羅した「サッカー7カ国語辞典」を出した。
そのうち20年の東京五輪開催が決まった。競技数はまだ固まらないが、私も80歳を超え、いつまでも待てない。急いで準備にとりかかり、昨年、日・英・独・仏・ロ・西語による「夏季オリンピック六ヶ国語辞典」全5巻を刊行した。射撃、トライアスロン、新たに導入が決まった7人制ラグビーなど36競技のほか、正式種目への復活が期待される野球やソフトボールも「先取り」をして入れた。
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訳語に文化の違い
翻訳していて難しくもあり、面白くもあるのは、それぞれの文化の違いが言葉に表れるときだ。技の名前が複雑な体操競技の例を挙げよう。
つり輪の技である「前方屈身2回宙返り2分の3ひねり下り」をフランス語では「ドゥブル・サルト・アヴァン・カルペ・アヴェク・アン・ドゥ・トゥル・エ・ドゥミ」という。「前方屈身2回宙返り」までは日本語の直訳に近いが、後半の「2分の3ひねり下り」は「1回転半ひねり下り」という表現になっている。
同じ技がロシア語では「ドゥバイノーィエ・サーリタ・フピリョート・サヴヌゥーフシシ・ス・パヴァロータム・ナ・ピィチソート・ソーラク・グラードゥサフ」となる。これも前半はほぼ日本語の直訳と同じだが、後半は「540度ひねり下り」という言い回しになっている。
このように、辞典にはすべて発音をカタカナで表記した。日本語にない音を表すのは骨が折れる。正確を期すため、時には大学で語学を教えている先生に相談した。
夏季五輪辞典は東京五輪の競技数が確定した段階で、改訂版を刊行したい。私が編んだ辞典は大学のスポーツ研究者や通訳、各スポーツ団体、公共図書館などで活用されていると聞く。少しでもスポーツ文化振興のお役に立てているのであればうれしい限りだ。
(ほんだ・ひでお=元体育教諭)
[日本経済新聞朝刊2016年4月22日付]
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