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イタリア・ミラノのガッレリア=PIXTA

イタリア・ミラノのガッレリア=PIXTA

シチズンホールディングスの戸倉敏夫社長(66)は海外勤務を希望して1973年に入社。しかし、送り込まれたのは倉庫だった。

とくら・としお 1973年(昭48年)早大教卒、シチズン商事(現シチズンホールディングス)入社。海外畑を中心に歩む。2010年常務、12年社長。東京都出身">

とくら・としお 1973年(昭48年)早大教卒、シチズン商事(現シチズンホールディングス)入社。海外畑を中心に歩む。2010年常務、12年社長。東京都出身

大学時代は授業より英語サークルの活動に熱中していました。就職活動も海外勤務ができそうな会社を狙っていましたが第1志望は全滅。たまたま大学の学生課で紹介されたシチズン商事(現シチズンホールディングス)から内定をもらい入社を決めました。

最初の配属先は外国部商品課。希望が通ったと喜んだのもつかの間で、業務は倉庫で商品を海外に発送する仕事でした。来る日も来る日も発送作業ばかり。海外で働けると甘い考えを抱いていた私には苦行でした。

当時は入社2年目で本社勤務になるのが通例でした。ところが私の場合、新入社員が先に本社配属となり、私は2年目も倉庫勤務のまま。追い打ちをかけられたようで腐りかけていました。逃げたい一心で転職活動を始め、内定をもらうまでいきました。

転職するか迷っていた時、先輩にかけられた言葉で心を入れ替えた。

転職すべきか悩んでいたとき、10年ほど上の先輩から活を入れられました。「小さな腕時計ばかり見るな。外を見ろ」と。狭い世界に閉じこもらず、常に外を意識して広い視野を持てということでした。それが転機になり会社に残る決意をしました。

「残るからには全力でやってやる」と腹をくくりました。甘えた学生気分を吹っ切ろうと決めた瞬間でした。それからの1年間は倉庫で黙々と業務に励みました。

数年後、本社勤務を経て念願の海外へ。イタリアでは支店長ポストに。

香港駐在などを経験後、海外担当として日本と海外を行き来する中で課長級になりました。89年にイタリア・ミラノで支店立ち上げを任され、現地の弁護士や取引先銀行の選定のほか、経理や販売責任者の採用も手がけました。

支店の人員は10人弱で日本人は2人だけ。ほかは現地採用でした。当時私は40歳。初の支店長ポストだったこともあり意気込み過ぎていました。現地のことを何も知らないのに「ばかにされてはいけない。支店長らしくしなれば」と常に見下したような態度で社員と接していたのです。

気がつくと現地社員と大きな溝ができていました。指示通り動いてもらえなくなったのです。関係修復のため、それからは社員と家族やペットのことなど何でも話すよう努めました。ぎこちなさを払拭するのに半年かかりました。

積極的にコミュニケーションを取る一方で気を付けたこともあります。ミラノの人は働き者で優秀です。しかし、どんなに優秀な現地社員の意見でもうのみにせず、本当に会社の利益になるのか常に客観的な判断を心がけました。ミラノでは6年を過ごしましたが、組織を率いる難しさを身をもって知りました。

<あのころ>
 1960年代、日本の時計メーカーの技術は急速に進歩した。69年には服部時計店(現セイコーホールディングス)がクオーツ式腕時計の製品化に世界で初めて成功する。以降、安くて精度の高い日本製の時計は世界を席巻。一方で、スイスなどの伝統的な工房の廃業が相次いだ。
[日本経済新聞朝刊2016年4月12日付]

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