小倉昌男 祈りと経営 森健著
福祉活動にたどり着いた背景
小倉昌男氏は、社長としてヤマト運輸を大きく育て上げ、管理・規制と闘った男として知られている。
小倉氏は20代を戦争と結核療養で無為に過ごし、父親の大和運輸(当時)に復職。「宅急便」を開始した後、大口貨物路線から小口配送に一本化して現在の「クロネコヤマト」の成功をもたらした。しかし、70代でヤマト運輸を完全に離れた後は福祉財団の活動に没頭して障害者の働ける職場を立ち上げ、2005年に80歳で他界した。
本書の著者は、広く知られている小倉氏の経営者としての人物像と、晩年の行動との関係に注目し、疑問を投げかける。なぜ、小倉氏は引退後に福祉活動にのめり込んで障害者の自立支援に走り回ったのか。そしてなぜ、80歳を迎えた小倉氏が、がんをおして長女の住むロサンゼルスに向かい、異国の地で息を引き取ったのか。晩年の小倉氏の姿と、彼の名声との間であまりにギャップが大きいと感じ、既出の書籍や資料だけでは知り得ない、まだ語られていない言葉や背景があると見抜いた。謎解きの旅が、そこから始まる。
関係者へのインタビューを重ねるうちに、小倉氏がプロテスタントからカトリックに改宗したのは妻と同じ宗派にしたかったためで、妻にはキリスト教的な意識でボランティアをしたいとの思いがあったという話を聞く。だが、著者はその答えに満足しない。
そこで、妻、娘との家族関係に焦点を当て、インタビューはより近親者へと進んでいく。小倉氏は財団時代の孤独な日々の中で何に祈りをささげ、何を望んで活動したのか。そこには、本人が語らなかった心の闇があった。信仰は、その闇を照らそうというものだった。
小倉氏の好きな言葉に「おれは生かされている」というのがある。戦争末期に学徒動員で召集されたが終戦で命拾いした。結核のときは死を覚悟したが、大和運輸が請け負っていた進駐軍の仕事が縁で、特効薬の抗生物質をいち早く入手できた。後年も、がんの手術が成功して1カ月半で退院できた。幸運にも生き延びられたという感覚があるから、与えられたと感じる使命に立ち向かえたに違いない。
著者は最後に核心部分を聞き出すために、小倉氏の長女へのインタビューを試みる。多くの読者は、残された数ページに書かれた事実を知ってしまうことにちゅうちょするだろう。評者は少し怖かった。しかし、結末でたどり着いたのは、意外にも救われる感覚であった。
(第一生命経済研究所首席エコノミスト 熊野 英生)
[日本経済新聞朝刊2016年4月3日付]
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