まく子 西加奈子著
会話の魅力 きらめく思春期
「まく」という動詞は、例えば種なんかをまく時にも使うし、それに意味がこもって何かを大勢に行き渡らせ、与えるときにも使う。お金をまく、なんていうのは、あまりいい使い方ではないけれど、とにかく「まく」という言葉は何かを投げる行為の先に「届く」地点に「与える」ということも実は内包しているみたいだ。
だから、『まく子』に出てくる「まく」子も、そのようなことができる人だった。手放すことと与えることを彼女は知っていた。
物語は、適度にさびれたある温泉街の描写から始まる。人々は典型的な田舎の良き老若男女で、人が良く、噂好きで、しばしば鬱陶しい。主人公の「ぼく」は11歳。土地の閉鎖的な暑っ苦しさと安心感の中で、今まさに思春期を迎えようとしている。変わっていく体と、引きずられるように変化を強いられる精神との間で、一人の少女と運命的な出会いをする。
本作の魅力はなんといっても「ぼく」とコズエの会話。コズエは、岩井俊二の映画に出てきそうな大人びた不思議な色気のある美少女だが、彼女は魅力的な少女であると同時に「ぼく」にとって導き手のような確固とした存在だ。それが二人の会話によく現れている。二人の会話は、いつもどこか風変わりで、コズエは、自分の話をする時以外はただ「ぼく」を見つめて、言葉をオウム返しで質問するだけ。「ぼく」はコズエに調子を狂わせられっぱなしである。けれど、そうしているうちに、「ぼく」は自分自身で様々なことを考え、気づくのだ。
「野蛮?」「みんなばかなんだよ。だって、ばかみたいなことで、ばかみたいに笑うし。ばかだし。」「ばか。」「そう。」「それは、野蛮なの?」
本来、会話をするとはこういうことなのかもしれない。相手と自分との差異を確認し、他人を他人として受け入れて、相手と自分をただ見つめるのだ。コズエは鏡のように人々を反射し、人々にとってやがて大きな光源になる。
西加奈子の文体は、わかりにくさがない上に、人をぽんぽんと跳ばせてくれる。言葉のトランポリンに乗っかり、きらめく物語を渡っていけるのが魅力だ。散文だけど、一文一文の間に絶妙な溝があって、跳んでいるように読むことができる。
思春期の心の丁寧な描写と、鏡のような会話をするコズエと、軽やかな文体。生と死が循環する輪と、その内側で発酵するきらめくものたちが瑞々(みずみず)しく描かれた作品だ。
(詩人 暁方 ミセイ)
[日本経済新聞朝刊2016年4月3日付]
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