仙台の英雄噺をひとつ 被災地で公演、創作落語
歴史たどり、ギャグちりばめる
2011年の初夏、仲間と宮城県南三陸町の海沿いに建つホテルに出かけた。下層階は、津波ですっかりやられている。避難所となった宴会場には、不安を抱え、途方に暮れ、疲れきった人たちがいた。端っこの一角に陣取り、座布団を敷く。「みなさん、こんにちは。桂友楽でございます。さて、隣町の……」
耳を傾ける人は、ほとんどいない。単純明快な爆笑噺(ばなし)なのに、クスリとも笑い声は起こらない。ああ、まずい。後悔が募る。
仙台に生まれ、育った。10年前に退職してから趣味の落語に打ち込み、アマチュア落語家として活動してきた。
普段通り過ごしていた11年3月11日、東日本大震災が起きた。自宅は半壊し、女房の形見の陶器が砕け散った。電気もガスも止まり、カップラーメンを水ですすった。
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扇子を携え避難所回る
しばらくは暮らすのに精いっぱい。しかし、少し落ち着くと、今度は他の被災者が気になってきた。自分でさえ辛いのだから、もっと苦しい人が大勢いるはず。いてもたってもいられなくなり、扇子を携えて避難所を回り始めた。多い時で年間50カ所以上を訪ねた。
もちろん最初は何をやってもだめ。被災者は笑える状況じゃない。逆の立場だったら、「他にやることがあるだろう」と怒ったかもしれない。
でも私は、笑いの力を信じたかった。落語に出てくるご近所のつながりが、彼らの心に響くとも思った。もともとめげない方だから、反応が悪くても気にしなかった。
半年くらいした頃だろうか。仙台市内の体育館で、最前列のおばあちゃんが「ワハハ」と大笑いしてくれた。びっくりするほど、明るい表情だった。別の避難所で歌謡曲を歌うネタを披露すると、「歌じょん(上手)だねえ」と声をかけられた。「久しぶりに笑った、ありがとう」という言葉も。みなが笑いを求め始めた、と手応えを感じた。
小さい頃、寝る前に父が語る「アラビアンナイト」が一番の楽しみだった。私もまねして学校で話すと、人気が出た。雨の日に体育の授業が中止になるたび、先生から代わりの語りを任された。「落語みたい」と言われ、落語に興味を持った。
東北大学に進み、落語研究会で研さんを積んだ。在学中にプロを目指して8代目桂文楽の門をたたいた。夜行列車で上京し、早朝から待ち伏せする。熱意が通じ、「友楽」の名を頂いた。
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おかみさんが猛反対
ヨシッと意気込んだのもつかの間。師匠のおかみさんに猛反対された。いわく「噺家(はなしか)なんて食えないよ」。それは困ると思い直し、電電公社(現NTT)に就職。40年間勤め上げた。その間も寄席には通い続けた。
退職して落語漬けの日々が始まる。ボランティアであちこち出かけ、公演の依頼も舞い込むようになった。09年、地元の歴史を調べる会に誘われたのをきっかけに、仙台の英雄を主人公にした落語の創作も始める。
例えば幕末の仙台藩士、玉虫左太夫。湯島聖堂で学び、日米修好通商条約を結ぶために渡米したエリートだが、戊辰戦争後に佐幕派として捕らえられ、切腹。悲惨な最期を迎えたためか、地元でも忘れ去られた人物だった。
資料がほとんどなく、手探りの状態でスタート。左太夫の子孫と知り合い、情報をもらった。それでも足りない部分は「創ってしまえ」と開き直り、想像を膨らませた。左太夫はアメリカから共和制の思想を持ち込み、現在の日本国憲法の原案をこしらえたのではないか。こんな発想を柱に、ギャグをちりばめた。
なにしろ歴史を掘り起こすところから始めるので、1作に2年ほどかかる。これまで支倉常長や四ツ谷用水を作った川村孫兵衛らを題材にした。歴史が好きだから、達成感はかなりのものだ。
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復興への力になりたい
いまは400年前に東北に甚大な被害をもたらした「慶長の大地震」に関心がある。東日本大震災後に研究が進み、被害の詳細や復興策が明らかになりつつある。その逸話を盛り込めば、東北人が元気になるのではないか。
被災地では当初、ギャグ満載の爆笑噺を演じた。ストレートに届く笑いが必要だと思ったからだ。生活再建が進み、公演会場が避難所から市民センターに変わったころから、創作落語も話すようになった。
すると「先人の話に勇気をもらった」と感激してくれる人がいた。ハード面で復興が進んでも、心に大きな喪失感を抱える人はまだまだ多い。地元の英雄譚(たん)に、自信をもらうのだと思う。他ならぬ私がそうであるように。
(大友健弘=アマチュア落語家)
[日本経済新聞朝刊2016年3月9日付]
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