アート&レビュー

ブックレビュー

イエス伝 若松英輔著 国内外の文献に幅広く目配り

2016/1/31付 日本経済新聞 朝刊

 世にイエス伝は数多いけれども、この著作のように、近代日本の諸文献をていねいに渉猟し、それに世界各国の論者にも目配りした伝記は珍しい。その仕組みは日本人の教養姿勢に合わせた試みであり、イエスへの親しみやすい接近法である。

(中央公論新社・2500円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

 イスラームの聖典『コーラン』にイエスは尊敬すべき預言者として登場する。コーランと新約聖書が接合したような記述である。二つの宗教は決して相反する存在ではない。こういう問題では、イスラーム研究者井筒俊彦がよく読みこまれている。

 イエスのおこなった奇跡の重要性を指摘した岩下壮一が、異なった宗教が道を同じくする点についてインドのヴィヴェーカーナンダとその師ラーマクリシュナの宗教論が賞賛(しょうさん)されている。

 また法然と親鸞の二人が「存在においては二だが、霊性においては一なるもの」と書いた鈴木大拙の仕事が評価されている。これらの哲人たちの主張がイエスの「山上の説教」という天上の教えに通じている。言ってみればイエスの言葉自体が奇跡であるというのだ。

 新約聖書には、イエスの神髄、この奇跡の言葉が充(み)ちている。イエス伝を書くという行為は、イエスの言葉との交流であり、その言葉を通してその教えの本質に迫ろうとする試みである。

 ところで、イエスの教えが、言葉のみでなく、行為に向かって急展開していくのが、最晩年の受難である。エルサレム入城、最後の晩餐(ばんさん)、ユダの裏切り、イエスの逮捕、裁判と死刑判決、十字架の道行きとイエスをめぐる外圧は急展開する。イエスはおのれの未来を正確に透視しているのに使徒たちにはそれが理解できない。彼らは主イエスを捨てて逃げかくれするだけであった。この絶対の孤独のなかで、イエスは死に、さらに復活を果たし、弟子たちに顕現して、キリスト教が完成する。

 このドラマは、イエスの死の意味の重要性を示すと喝破したのが岩下壮一であった。

 ところで、使徒たちの裏切りと逃亡に重ねた労作が遠藤周作の『沈黙』である。主人公の司祭が踏絵(ふみえ)に足をかけたとき、朝が来て鶏が鳴いた。つまりペトロの三度目の離反と響き合う名場面であるのだが、あの場面の裏切りの決行者である司祭はユダそのものではないか。ユダをも愛したイエスの愛の深さこそ讃(たた)えられるべきだと著者は言っている。この点は後を引く論争になりそうだ。

 このイエス伝には、明治開国以後の日本の英知の紹介、そして、議論を呼び起こす種がゆたかにまかれている。

(作家 加賀 乙彦)

[日本経済新聞朝刊2016年1月31日付]

イエス伝

著者 : 若松 英輔
出版 : 中央公論新社
価格 : 2,700円 (税込み)

アート&レビュー