フリートレイド・ネイション フランク・トレントマン著
英国と自由貿易 変質を再検討
イギリスのEU離脱決定やトランプ現象で、グローバル化の流れに微妙な変化が生じつつあるという観測の多いなか、自由貿易と一国保護政策の関係を歴史的に再検討する本書は、極めてタイムリーである。自由貿易をめぐる歴史研究には長い伝統があり、その上に立っているので、直接、現下の問題を扱うわけではないが、世界の現状の理解にも、貴重な示唆が得られる。
19世紀中期、穀物法が廃止されてから第1次世界大戦に至るまで、イギリスでは、「自由貿易」はたんなる経済政策ではなく、多くの集団や個人によって支持され、社会正義を体現するものとして一種の「信仰」の域に達していた。いわばイギリス固有の「政治文化」となっていたのである。
19世紀末、多くの欧米諸国が保護貿易を採用するなか、イギリスだけが強固に自由貿易を維持したのは、このためである。かつての通説のように中流階級が強力であったからでも、シティの特殊な集団の影響力のせいでもなく、自由貿易は、平等や正義を実現するものとして、階級、性別、人種などの違いをこえて、様々な社会運動の集団に支持されていたからだ、という。世界的潮流にそったチェンバレンの「帝国特恵関税」が、イギリスでは実現しなかったのは、象徴的な出来事であった。
しかし、イギリスでも第1次大戦の後半、食糧統制をめぐって、諸集団の利害は一致しなくなり、正義としての自由貿易への懐疑が拡(ひろ)がることになる。そこには、食糧の消費者としての新たな「市民階層」の台頭があったというのである。他の列強、とくにドイツが統制経済を採用したのに、イギリス政府は、遅くまでそのような政策をとらなかった。食糧事情の悪化するなかで、自由貿易は平等や正義を保証しえなかったのである。多くの国民が、旧来の自由貿易では労働者や女性にとっての社会正義が守れないと判断して労働党や社会民主主義を支持するに至ったとき、「自由貿易」そのものも変質して、いわば偏狭な、特定の社会集団の利益と結びついた、たんなる経済政策と化した。
イギリスが遅くまで自由貿易にこだわったことは、その後のイギリスの経済衰退の一因としても、かねてしばしば指摘されている。イギリス国民を「フリートレイド・ネイション」と呼び、その成立過程を辿(たど)る歴史研究も多い。そうだとすれば「ブレグジット」を選択した現代のイギリス人は、グローバル化やEUのような広域経済の背後に、「変質した自由貿易」の影をみたのだろうか。
(大阪大学名誉教授 川北 稔)
[日本経済新聞朝刊2017年2月12日付]
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