しんせかい 山下澄人著
私小説から未知の領域目指す
高校を卒業しアルバイトをしている「ぼく」のもとに未知の世界からの誘いがくる。それは誤配された新聞に載っていた、入学金も授業料もかからない、カリスマ的な脚本家が主宰する演劇塾の募集記事であった。確かな動機もなく応募して合格した「ぼく」は、恋人になりかけていた同級生の女性を残して単身北に渡る。農家の手伝いや肉体労働にあけくれる自給自足の共同生活のなかで、俳優になることを目ざして「ぼく」は苛酷(かこく)な生活に耐える。脚本家の先生や一期生の先輩や仲間との軋轢(あつれき)のなか、劇を学ぶことと人生の学びが重なり合う。
主人公の名が「スミト」であり、作者が劇団の主宰者で「富良野塾二期生」であったことから、倉本聰氏の名前もすぐに連想される(表紙の題字は倉本氏の筆になる)。作家自身の体験に基づいて書かれた作品といっていいだろう。もちろん体験をそのまま描いた私小説ではなく、虚実が綯(な)い交ぜになった話であることは容易に想像できるが、この作品の真骨頂はそこにはない。
ブルース・リーになることを夢みて飛び込んだ演劇塾での経験や、著名な脚本家の先生の生き様に感応する主人公の姿を見れば、確かにこれは現代におけるビルドゥングスロマン、つまり白紙の純粋な状態から、他者との様々な葛藤を経て成長していく青年の物語と読むこともできるだろう。『若きウェルテルの悩み』が作中にさりげなく挿入されるのは、そう読ませもする作家の詭計(きけい)である。
しかし、つねに揺れ動き絶えず不安定な相貌をあらわす作品の言葉、とりわけその文体の語尾の曖昧さ(あらゆる断定を回避する)のなかで、「ぼく」が「体験」するのは、いかなる現実とも体験とも照応することのない、文字通り未知なる領域なのだ。読み進めるなかで読者は、我々が現実や体験と呼んでいる地平が、あっさりと崩れ去っていくのを鮮烈な眩惑(げんわく)として味わうことになるだろう。その意味でこの小説は、私小説とも教養小説とも似て非なる"異種"であり、そこにこそ現代小説としてのアクチュアリティがある。
それは取りも直さず我々が直面している現代の世界が、何らかの歴史のストーリー、すなわち安定した物語の一切を築きえない混沌(カオス)と化しているからである。政治も経済も、文化も宗教も、既成の価値観の瓦解現象のただなかにあるのであって、小説はその「現実」をまさに、言葉の力によって切り取ることができるのである。
(文芸評論家 富岡 幸一郎)
[日本経済新聞朝刊2017年2月12日付]
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