北海道民謡、「エンヤーコーラヤ」探る旅
北海道教育大学名誉教授、吉田源鵬
「エンヤーコーラヤ」で有名な北海盆唄、ソーラン節に江差追分。北海道の民謡には、大衆歌として親しまれるメロディーも少なくない。新天地を夢みて移住した人々が口ずさんだ故郷の民謡を土台にして、独特の発展を遂げたのだと思う。私はその魅力にとりつかれ、約60年にわたって歌いながら研究してきた。
思い返すと子供の頃から民謡になじんでいた。父は富山出身で、道北の東鷹栖村(現旭川市)で農家をしていた。農作業を手伝うと、よく故郷の「越中おわら節」を歌ってくれた。聞くだけで作業のつらさも消えるように感じたものだ。「うたわれよー、わしゃはやす」の節回しは今でも耳に残っている。
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労働のつらさ紛らわす
進学して農業を学んだが終戦時に農地を失い、農業経営や技術の教員になった。20代半ばの夏、へき地調査のメンバーとして山間地にある占冠村を訪れた。農作業が最も忙しい時期で、農家は明け方から日暮れまで働き、すぐに寝てしまう。
そこで話の取っ掛かりに民謡を持ち出したところ、みんな懐かしそうに歌い始めた。福島の相馬盆唄や埼玉の秩父音頭だっただろうか。夜中までの酒盛りで仲良くなった。それで調査が円滑に進み、民謡の力を見直すきっかけになった。
北海道の民謡を支えたのは、厳しい自然に向き合う農家や漁師、落盤などで命の危険にさらされる炭鉱の作業員だった。労働のつらさを紛らわせるだけでなく、宴席で一緒に歌って息抜きをしたり、連帯感を高めたりしていた。
こうした民謡を集めてみようと、道内各地を巡り始めた。それぞれ古老に地域の歴史や自然環境、風俗を教えてもらって、歌の意味を理解していった。特に面白かったのは炭鉱町だ。北海道の石炭生産量は1960年代に最盛期を迎え、活気にあふれていた。
歌詞を知りたいとお願いしても、初対面では恥ずかしそうに照れ笑いして教えてくれない。何度も通って酒を酌み交わし、ようやく聞き出すと、びっくりするほど卑わいなものばかりだった。
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各地の民謡から影響
100種を超す民謡が集まったが、やはり印象に残っているのは北海盆唄だ。替え歌がザ・ドリフターズのテレビ番組「8時だョ! 全員集合」で流されたので、ご存じの方も多いだろう。
発祥を探っていくと、道央の三笠市の幾春別炭鉱の盆踊りの曲にたどり着いた。ある有名な民謡家が昭和初期に炭鉱を訪れ、盆踊りのにぎやかさや躍動ぶり、軽快な節回しに魅了されたが、あまりに卑わいだった歌詞を改め、編曲したことがわかったのだ。さらに炭鉱の盆踊りの曲の歌詞やはやし言葉を分析すると、新潟や福島、福岡など、さまざまな民謡が直接間接に影響を及ぼしたことがわかった。
道南の江差追分にも驚いた。代表的な民謡の歌詞を集めて出版しようとした際、江差追分だけで2500~3000種に上って一冊になった。源流といわれる信濃追分や越後追分の歌詞をすべて取り込んでいたのだ。こうしたおおらかさも魅力のひとつである。
幼い頃に耳にして、少し暗い感じだなと思っていたのが「ナット節」だ。開拓農家が宴席でよく歌った。明治時代に東京で大流行したラッパ節が道内の缶詰工場などに伝わり、社会風刺の歌詞に変わって広まった。派生歌が十数種にも上ったほどだ。
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歌い手訪ねて全国行脚
民謡の由来が気になって全国行脚をしたこともある。歌い手を訪ねて、歌詞の言葉の意味をひとつひとつ尋ね、北海道の民謡との類似点を探っていった。なかなかはっきりした指摘ができなかったのは心残りだ。
モンゴルの「オルティンドー」に追分節のルーツがあるという説を耳にして、モンゴル大学を2度訪れたこともある。確かにメロディーに似た部分があるが、関係性は見つけられなかった。
30代の頃から民謡教室の講師になり、最盛期は100人を超す愛好家に教えていた。初心者向けに道内70曲を簡単な譜面にして出版したこともある。一時は本業が何か分からないほどだったが、一緒に民謡を楽しんだ仲間は財産になっている。
民謡は暮らしとともにあり、人々を勇気づけ、時に笑いを誘って生活を彩ってきた。今の若い人は共感しにくいかもしれないが、これが消えていくとすればもったいない。今後も楽しみながら歌い継いでいきたい。
(よしだ・げんぽう=北海道教育大学名誉教授)
[日本経済新聞朝刊2017年1月12日付]
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