ミニSLの楽園、夢乗せて 世界最大級の走行コース
医療法人理事長、勝又厚志
蒸気機関車の模型を実際と同じく蒸気で走らせるホビーをライブスチームという。愛好者は多いが、走る場所が不足しているのが悩みの種だ。
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総延長は1950メートル
私は1998年、富士山を望む静岡県裾野市の約1万平方メートルの私有地を整備し、走行コースを持つ施設「日本庭園鉄道」を開園。総延長1950メートルの模型用レールを敷くなど世界最大級の施設に育て、ファンや近隣の家族連れに開放してきた。
「我々は競争をしない」。この言葉が私をライブスチームに強く引きつけたと思う。30年ほど前、30代前半だった頃、愛好団体「横浜ライブスチームクラブ」を見学した時、同クラブの会員に信条を聞かされた。私には青天のへきれきだった。
がむしゃらな営業マンだった私を支えていたのが、人一倍の競争心。東京や大阪の人間に負けてたまるかと燃えに燃え、静岡で全国トップ級の営業成績を上げていた。趣味は車や飛行機の無線操縦模型で、そこでも他のマニアに勝ちたいから、お金を惜しまずにつぎ込み機器の改良を重ねた。
でも手先が不器用で、操作がうまくできない。そんな時に静岡県沼津市の模型店で、ドイツの蒸気機関車「BR01」の32分の1模型に出合った。37万円という目の飛び出る価格だったが、思い切って購入。エンジンが付いていて、石炭やアルコールなどの燃料と水を使用した蒸気機関で稼働する。そのはずだったが、説明書通りにつくっても動かない。つくっては全部品をばらすの繰り返しを4回ほどして、半年がかりで完成した。
庭に専用のレールを敷き走らせた。「本当に動いたよ!」。うれしくて、うれしくて。すると欲が出てくる。庭に設けた約30メートルのコースは、狭いのでカーブがきつく、脱線や転倒続き。だから複線の広いコースがある横浜ライブスチームクラブを見学に行って「いつかオレもコースをつくる」と願いを心に秘めた。
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競うより笑顔を糧に
転機は数年後にきた。私の実家は土地持ちで、あるとき父が裾野市の数万坪の芝畑を「おまえにやる。自由にしろ」と言った。地場産業で芝生をつくってきたが、採算が合わなくなってきたという。コースをつくるしかない。ログハウス業者に施工を依頼し、コンクリートの基礎の上に木製の高架を設け、幅45ミリの150メートルの線路を敷いた。
同幅では日本最長で、98年11月の開通式には噂を聞きつけた国内外の約200人の愛好者が模型車両を持ち寄って集結。無料で開放したので、その後もほぼ連日、誰かが蒸気機関車を走らせて、とても繁盛した。そして、また欲が出てきた。世界一を狙おうと、幅45ミリの一番ゲージを1250メートルに延長。幅5インチと3.5インチの線路も新設し、拡大路線を突き進んだ。
2000年にはメーカーや愛好者でつくる「小型蒸気機関車製造者協会」が主催する一大イベント「ライブスチームショー」を開催。全国から2000~3000人がやって来て、田舎の町が大いににぎわった。「先祖代々の土地でろくでもない遊びをして」と言っていた近所の人々からも「こんなに人を集めて、ただもんじゃねえ」と褒められるようになった。
ますます調子に乗るところだったが「いや、待てよ」と思い直す。休日には大勢の家族がやってくる。おじいちゃんが孫を後ろから抱きかかえてミニSLに乗せている。幸せそうに笑い合っている光景を見ると、私も満たされた気持ちになる。私の自己顕示のために日本庭園鉄道はあるわけではないのだ、と自然とうなずけた。また競争をしてしまうところだった。
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20年でイベント構想
以降、自然体で向き合っている。愛好家の人たちと4年がかりで別の線路を製作したり、兵庫県の「余部鉄橋」を再現した鉄橋をつくったりと、コースは拡充しているが、みんなで協力して楽しみながらやっている。毎月第1、第3日曜日を開放するなど、運営も無理なく行えるようにした。ピザを焼く窯をつくって親子に振る舞うなど"本業"以外も充実させた。
日本庭園鉄道は愛好家クラブでもあり、55人の会員がいる。ライブスチーム製作の第一人者の和田耕作氏が会長で、この前ふらりと私のもとに来て「来年が開通20年目になるが記念の何かをやらないかな」とつぶやいた。そういえば、この数年は大きなイベントをしていなかった。愛好者が楽しそうに蒸気機関を走らせ、それを見守る人たちの歓声が絶えないものを開きたいなと夢見ている。
(かつまた・あつし=医療法人理事長)
[日本経済新聞朝刊2016年11月21日付]
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