修行と信仰 藤田庄市著
究める人の姿通して迫る宗教
評者は母ががんで苦しんでいるとき、下総中山の日蓮宗遠寿院の戸田日晨師のお勧めで、荒行のさなかの若手の僧侶たちにご祈祷(きとう)いただき、思わず涙ぐんだことがある。限界まで身体を使うことで初めて具現するような信仰の姿がある。深い修行によってこそ得られる宗教的境地があることを実感した経験だった。
「無宗教」と自覚する人が多い日本だが、かろうじて宗教への敬意は保たれている。「人間が生きる上で宗教は大切である」と考える人の割合はさほど下がっていない。そのように尊いものを伝えている、そう考えられる宗教の実像に近づくこんなやり方もある。つまり、奥深い修行の道を究めようとしている人々と出会うことである。
フォトジャーナリストである著者は、信仰する人々に肉薄する試みを長く続けてきており、その経験を踏まえてこの著書をまとめた。取り上げられているのは、比叡山好相行、石上神宮の鎮魂行法、東大寺修二会、密教の求聞持法、法然と山崎弁栄の系譜の三昧発得、臨済禅、大峯修験、羽黒修験、御嶽教の御座、禊(みそぎ)教の御祓(おはらい)修行と多様だ。遠寿院の荒行にも一章がさかれている。各章いずれも修行の全体像について概説するのではなく、特定の修行者の人物像を通して描き出そうとしているところに特徴がある。
「あとがき」で著者は宗教の危険性について力説しているが、それにもかかわらず「僕は宗教が好きだ」という。著者が宗教において尊いと感ずるものが、修行に打ち込む人々を通してこそ見えてくるという信念が背後にある。
終章では釜ケ崎で野宿者とともに生活しながら信仰を深めるカトリックの本田哲郎師にふれている。修行を積むことは一般社会の苦難のただ中から離れるように感じられる。だが、本田神父のように「小さくされた者」とともにあることにおいてこそ、信仰の深みがあることを教えてくれる宗教者もいる。個の心身の深みに没頭する感のある修行だけではない、交わりのなかにある宗教の真正性をも指し示そうとする意図がうかがわれる。
多様な修行をくくり出してその力を説明する理論があるだろうか。第1章ではそのような試みにも取り組んでいる。だが、本書の真骨頂は個々の修行者と修行の実像への肉薄にある。女性の霊能者についてもすぐれた著作のある著者だが、修行についてまとめた著作に女性の影が薄い理由を聞きたくなった。
(宗教学者 島薗 進)
[日本経済新聞朝刊2016年11月13日付]
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