渡邉洪基 瀧井一博著
官僚出身 帝大初代総長の活躍
現在の東京大学は、ルーツを2つ持つ。ひとつは明治10年創立の旧東京大学。もうひとつは明治19年創立の帝国大学である。旧東大は東京開成学校と東京医学校を合併してできた学術専門の大学。帝大のほうは、旧東大を改組し、工部大学校などを組み入れて、「国家ノ須要ニ応スル」大学としてできた。だから、帝大は、伊藤博文や初代文部大臣森有礼などが旧東大をテーク・オーバーして出来(でき)た大学といえる。東大が官僚養成大学というイメージをもったのは帝大をルーツとしたものである。
本書は、この帝大の初代総長渡邉洪基の評伝である。しかし、渡邉は旧東大総長加藤弘之のような学者総長ではない。前歴が東京府知事の官僚総長だった。渡邉の就任は本命の加藤弘之をそでにしてのものだから、学者連には評判が悪かった。伊藤のパシリ役の総長のように思われてきた。そんなことが影響して、帝国大学にふれた教育史学者も渡邉については立ち入ってこなかった。
といっても本書は忘れられた人物を発掘しただけのものではない。渡邉が、パシリ教育官僚ではなく、実は類(たぐい)まれな経綸(けいりん)の士であったことが明らかにされ、それをつうじて明治日本の生成の現場がしだいに浮かび上がっていく。ここらあたり著者の筆遣いはまことに鮮やかである。
渡邉は学理の社会と現実社会との媒介と衆知を集めることが、これからの国家の姿形を造るにあたっての要と考えた。フランスのグランゼコールなどを参照しながら実用的な学校の創立を考案し、それが帝国大学の構想につながっていく。法科大学に国家学会を立ち上げたのも渡邉だった。他方で統計協会や東京地学協会などの各種団体のオルガナイザーとなる。いまいうところの集合知の糾合のために八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をする。
まさしく。渡邉は帝国大学の思想の構築者だった。同時に、近代国家をつくるにあたって単なる「学知」ではない「国制知」(国家の構成と諸制度を構想し、それを運営していく知的営みとそれに携わる学識集団)のプランナーであり、実践者だった。
渡邉は大学人を前にして「純理に拘泥するばかりで社会に利益をもたらさない学問は無価値」といってはばからなかった。著者もいうように、いまの役に立つ学問をスローガンにした大学改革論と重なるものがある。しかし、構想力のスケールで両者は根本的にちがっているようにもみえる。歴史を鑑(かがみ)にして今を考えることに誘う秀逸な評伝である。
(関西大学東京センター長 竹内 洋)
[日本経済新聞朝刊2016年10月23日付]
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