大人に贈る子どもの文学 猪熊葉子著
児童文学の価値を研究、立証
戦後、海外児童文学の翻訳、研究、評論で大活躍し、いまもなおその可能性を広げるべく活動を続けている著者の好エッセイ集。
第1章「子どもの本とわたし」は、本人の半生記。幼少期、愛することも子どもを育てることも知らない母親を持ち、現実的な外科医の父と文学に傾倒している歌人の母との葛藤のせいで心身症を病み、その一方で、ひとり本の世界に救いを求める姿が描かれている。「人間にとっての幸福というものの価値を実生活のなかでは見つけられず、本のなかで発見するほか」なかったという言葉がリアリティを持って迫ってくる。
そして戦後、聖心女子大学に進学し、国文学を専攻するものの、子どもの本の面白さにますます引きつけられて、イギリスに留学。オックスフォード大学の教授で、のちに『指輪物語』を書くことになるJ・R・R・トールキンに師事する。そして帰国。児童文学など文学研究としてはほとんど評価されない風潮の中で、ひたすら思うところを貫く。1章は全体で50ページほどの長さだが、思いがそのまま伝わってきて読み応えがある。
そのあと、いきなり「ハリー・ポッター」論。子どもだけでなく大人まで巻きこんだ世界的ベストセラーでありながら、「大人の幼児化現象だ」などと批判も多いこの作品の特徴を見事に捉え、英国浪漫派詩人の「子どもの発見」を例に引いて、堂々と肯定している。
さらにその後、ルイス・キャロル、ローズマリ・サトクリフ、フィリパ・ピアス、メアリー・ノートンら、児童文学作家たちの紹介、そして次の章「大人への贈り物としての子どもの文学作品」の紹介へと続く。その多くは1950年代以降に主に英語圏で書かれたもので、大人まで楽しませ、癒やしてくれる作品だ。
たとえば『風にのってきたメアリー・ポピンズ』『指輪物語』『ゲド戦記』『シャーロットのおくりもの』『トムは真夜中の庭で』などのファンタジーや、『クローディアの秘密』『まぼろしの小さい犬』「ランサム・サーガ」作品群などのリアリズム小説。どの解説も、決して長くはないが、誠実に、しっかり作品の本質を捉えているだけでなく、どこかに著者、猪熊葉子の子ども時代の声が響いているところがうれしい。
本書の最初に、「私のするべきことは、長らく関わってきた子どもの文学の価値を立証すること」だ、と書かれているが、その目的は十分に果たされている。
(翻訳家 金原 瑞人)
[日本経済新聞朝刊2016年10月16日付]
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