店シャッター、俺のカンバス 東海道を放浪し3000点
画家、清田定男
全国の商店街のシャッターに、エアブラシやスプレーで絵を描いてきた。味気ない無地のシャッターを人物や街並みの華やかな絵で彩り、店の宣伝や地域活性化、街の美化に役立ててもらっている。約30年で3000点以上を制作してきた。
「人間社会が嫌になっちゃった」。バブル景気真っ盛りの1989年、50歳だった私は人生の岐路に差し掛かっていた。グラフィックデザイナーとして成功し、稼ぎは順調。若くして高級車に乗り、神奈川県のデザイナー協会の事務局長を務めるなど順風満帆だったが、一変させる逆風が吹き付けてきた。
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しがらみ捨て自由に
暗闇で絵が光り浮かび上がるブラックライトの手法を開発し、ホテルやバーから注文が殺到。だが共に仕事をした会社に特許申請の先を越され、特許料を支払うはめに。家庭でも問題が発生し、妻と離婚する。しがらみを捨て自由に生きたくなった。頭に浮かんだのが、あの巨大な絵だった。
バチカン市国のシスティーナ礼拝堂の天井画。ルネサンスを代表するミケランジェロの作品で、最後の審判を描いた巨大なフレスコ画だ。私はもともと画家志望で、ルネサンスが好きでイタリアをよく訪れていた。ダイナミックさに時間を忘れて見入った。壁などに描くアメリカのビルボードアートも愛していて、私も無性に大きな絵を描きたくなった。
だから旅に出た。川崎市を起点に東海道の宿場町を訪ねる旅。日本はビルボードアートになじみが薄く、壁面に描くのはハードルが高い。ならばと商店街のシャッターに描く「シャッターアート」に挑んだ。店舗に飛び込み「描かせて下さい」と店主にお願いした。
当然だが初めは断られてばかり。顔も見ないで「しっ、しっ」と手を振って追っ払われたり、落書きと間違えられて怒られたり。それでも理解してくれる人はいて、眼鏡店なら女性がポーズを取って眼鏡をかける絵を描いた。その土地の歴史も調べて江戸期の街道の街並みを絵にしてみた。
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エアブラシとスプレー
デザイナー時代に美容室をプロデュースし、宣伝の一環でシャッターに絵を描いたことがある。クネクネした曲線状なので、筆では描きにくい。試行錯誤の結果、油性塗料のアクリルラッカーをエアブラシとスプレーで吹き付けるのがいいとコツをつかんでいた。
川崎、戸塚、藤沢……。行く先々で商店街のシャッターに少しずつ絵を描いていく。小田原に着く頃には地方紙やテレビの地方局の取材がたくさん入って、取り組みが社会的に認知され始めた。
それから数年前まで、東海道の商店街シャッターに絵を描き続けた。各地の町に数週間から2年滞在し創作に没頭。そのうち廃業店が目立ち「シャッター通り」と化した商店街から「アートで活性化させたい」と要望が相次ぎ、全国から依頼が舞い込むようになった。
依頼先には守りに入る保守的な商店街もあれば、イメージを一変させようと攻める街もある。後者は私の創作の自由を認めてくれて楽しい。
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今では観光スポットに
豊臣秀吉が一国一城の主になった長浜城(滋賀県長浜市)のお膝元にある商店街は、老朽化した店舗やアーケードを全面改装し、窓に格子を付けるなど江戸風の街並みを再現。私も協力して店舗のシャッターに江戸期の店構えを描いた。今では現地の観光スポットの1つになり、多くの人でにぎわっている。
横浜市港南区の上永谷駅近くにある商店街での仕事も思い出深い。集合住宅の一階部分に約30店舗が並ぶ。4年ほど前、シャッターが同じ大きさなのに目を付け、各店舗にヨーロッパの街並みを描いてみた。店を閉じた時、約170メートルの通りの横一線に欧州の街の絵が浮かび上がる仕掛けだ。
商店街のほか地元の住民も「街が華やいだ」と喜んでくれて、わざわざ遠方から見に来て下さる方もいるらしい。活動当初は落書き扱いされたシャッターアートが、街の雰囲気づくりにも役立っているのを実感して「続けてきてよかったなあ」と感激している。
近ごろ、大病を患った。体力が衰えて遠出がしづらくなったので、活動は自宅がある神奈川県の藤沢市周辺にとどめてきた。だが、絵描きの旅に出たい気持ちがどんどん膨らんでいる。キャンピングカーを購入して諸国を旅しようか。旅路の果てに生を終えるのも悪くない。放浪画家として最期まで生きようと、ふとした時に考える。
(きよた・さだお=画家)
[日本経済新聞朝刊2016年10月17日付]
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