入門　近代仏教思想　碧海寿広著

今の我々は南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経の区別も怪しい感じだが、百年前の日本人は今よりずっと仏教的な知識をもっており、仏教者の発言にも公共的な影響力があった。

時代が行き詰まり感を濃厚に見せつつある現在、近現代史を振り返るという営みが盛んに行われている。そこで見落とされがちなのが、仏教の果たした役割である。今の我々が宗教に興味がないとしても、その感覚を歴史の読解に持ち込んではならないだろう。

碧海寿広著『入門　近代仏教思想』は、明治から戦前にかけての日本仏教思想の流れをコンパクトにまとめた好著だ。諸宗派の全体を展望しているが、個別に取り上げているのは井上円了（えんりょう）、清沢満之（まんし）、近角（ちかずみ）常観（じょうかん）、暁烏（あけがらす）敏（はや）など真宗系の思索者たち、そして『出家とその弟子』で親鸞を独自解釈して一世を風靡した作家、倉田百三（ひゃくぞう）である。

禅には国際的に有名な鈴木大拙がいるし、日蓮法華主義は田中智学（ちがく）などの政教一致的な社会運動で知られるが、著者の見るところ、近代仏教をリードしたのは真宗の僧侶であった。江戸時代から僧侶と俗人の距離が近く、社会の変化への適応が容易だったからである。

さて、その真宗の系譜をたどりながら本書が浮き彫りにしているのは、哲学や体験主義を経て教養主義に向かっていく、そしていつの間にか全体主義に同調していく流れである。

井上は哲学をツールとして仏教の合理性を前面に打ち出した（ここにはキリスト教への対抗意識もあった）。清沢は宗教哲学を構築しつつその彼方（かなた）にある信仰を希求した。近角は回心体験を重視し、明治後期の「煩悶（はんもん）青年」たちに大いに支持された。

エリート青年が煩悶する時代には人格向上をめざす修養が重んじられたが、そこから社会活動抜きでもっぱら読書を重んじる教養主義の文化が生まれた。情熱的な読書家である暁烏は『歎異抄』の信仰告白的な読み方に思い入れるかと思えば次には日本精神に傾倒し、戦後は民主主義を称揚するといったふうに、糸の切れた凧（たこ）さながらの様相を呈している。やはり教養による自己確立をめざした倉田も、その後は国粋主義に向かっている。

伝統教理の重力から解放された思想が時代に同調して迷走するこうした動きは、仏教・宗教に限られたものではなく、現代の世俗的言説にも通ずるパターンではないか。「時代」の御し難さを知るには、先人の試行錯誤を学ぶのが一番だ。本書を推奨する所以（ゆえん）である。

（宗教研究家　中村　圭志）

［日本経済新聞朝刊2016年10月9日付］