偽りの帝国 熊谷徹著
VWの社風 過去に遡って考察
本書は2015年に発覚したドイツのフォルクスワーゲン(VW)の排ガス不正問題の全貌を記したものである。VWは世界市場でトヨタ自動車を抜いて首位となることを社命としており、そのためには米国の市場を制覇しなければならない。
そこでVWの経営者は技術陣に対し、欧州よりはるかに厳しい米国のNOx排ガス基準の達成を要求した。「手段を問わない。ただ実行あるのみ」という経営者に対して、燃費を下げずに基準を達成することは技術的に不可能なため、技術陣のとった手段が数値のごまかしであった。
具体的には、テスト時には排ガスを基準値まで抑制する一方で、一般の車道では燃費を優先するようなプログラムを車に搭載し、米国の規制当局を欺いた。この不正を見破ったのは、規制当局ではなく、米国の環境NPOであったことも興味深い。
著者は、こうした不正をもたらした背景として、とくに上司の命令には一切逆らえないVWの風土を、ナチスの国民車構想の時代にまで遡って明らかにしている。また、現場の技術者の間には、意味のない形式的な規制は無視するという慣習があり、それが自動車の安全性には直接関係のない排ガス規制についても拡大解釈された可能性も指摘している。
著者は、この不正を行うという意思決定は、必ずしも経営者ではなく、現場の技術陣であった可能性は否定しない。しかし、VWは米国のみならず全世界から莫大な補償請求を受けている。ただ命令すれば不可能なことも可能になると信じていた経営陣の責任は免れない。
ここでより大きな論点は、排ガス不正事件がVWの特殊な経営体質によるものか、それとも他の会社にも共通する普遍的なものかである。ほぼ同じ時期に日本で生じた三菱自動車の燃費データ改ざん事件は、やはり経営陣の圧力に現場の担当者が技術面の改善だけでは応じられなかった結果と伝えられている点では類似した面が多い。
こうした問題が生じる度に唱えられる規制強化や企業倫理の強調では、本質的な問題は解決しない。名目的な規制強化は、むしろ真に必要な規制を疎(おろそ)かにする危険性がある。また、経営者が明白に不正を主導した場合でもない限り、企業倫理で対応できる場合は少ない。結局、技術的にできないものはできないと言える現場の権限強化や、不正を強制されれば辞める自由のある雇用の流動性が、不正防止のより重要な要素ではないか。
(昭和女子大学特命教授 八代 尚宏)
[日本経済新聞朝刊2016年10月9日付]
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