ブラインド・マッサージ 畢飛宇著
等身大の障碍者の姿描く試み
本作を一読後、ふと考えさせられたのは、最近、日本で話題になった、障碍(しょうがい)者を感動的に描くことは必要かというNHK・Eテレ「バリバラ」の問いかけである。本作には、日中の国情や障碍者が置かれた状況の違い(作中の「恩に報いる」という言葉が時代を感じさせる)はあっても、確かに共通した問いかけがある。
豊かなピアノの才能を持ちながら、障碍者に「愛を捧(ささ)げる」チャリティーショーでお涙頂戴式に感動を煽(あお)る司会者に耐えられずピアノの道を諦め、マッサージ師を生業にすることを決めた視覚障碍者の都紅(ドウー・ホン)は、「主流社会」の同情が単なる憐憫(れんびん)、あるいは優越感にすぎないことを悟る。「『恩に報いる』ことなど、都紅は考えていなかった。(中略)恩に報いる? 誰に対して? 誰に恩義があるというのか? いつ恩義を受けたのか? 『全社会』に対して?」「自分がここに来たのは音楽と関係ない。他人の愛を引き立てるため、借りを返すために来たのだ。この負債は永遠に返済できない」
著者の意図は視覚障碍者にも健常者と変わらぬ欲望や悩みがあることをできるだけ内側の視点から描き出すことにあるのだろう。健常者は視覚障碍者に尋常ならざる才能を期待しがちで、実際本作においても障碍者の小馬(シャオマー)が「見れども見えず」の意味を悟ったり、光のない世界に沈潜しつつ時間の形に対する哲学的思考を繰り広げたりするエピソードは非常に興味深い。しかし、物語の終盤、都紅が指の事故をきっかけにして自分とまわりの関係が「見えていなかった」ことを悟ることからも分かるように、著者はやはり視覚障碍者を等身大の存在に戻そうとしている。
もちろん主人公の一人である王(ワン)先生が、できの悪い弟の借金のために素性の知れない借金取りの前で胸を切りつけたり、都紅をみすみす行かせてしまった仲間を「盲人の資格」はないとして叱責したりするエピソードなどは、忍耐強く人生を切り開こうとする視覚障碍者の美しいイメージに寄り添ってはいる。しかし、それらはお互い引き立て合って、個性豊かな視覚障碍者の社会を生き生きと描き出しているのである。
筆力がありながら、日本ではまだ馴染(なじ)みのない作家畢飛宇の力作が、練達の訳者の手で日本語化されたことは、中国に対してともすると「見れども見えず」の態度をとりがちな昨今の日本の状況のなかで実に幸運なことであった。
(静岡大学教授 桑島 道夫)
[日本経済新聞朝刊2016年10月9日付]
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。