漂流 角幡唯介著
行方不明の漁師の足跡たどる
これまでヒマラヤや北極圏など数々の探検に挑戦してきた著者が、今度は海に挑んだのかと思いきや、そうではない。
1994年、マグロ漁船船長の本村実さんが37日間に及ぶ漂流の後に救出された。著者によれば、こうした漂流こそ自然と人間の「不条理な関係」「極限性」「究極の真実」を示すもの。自分たちの探検や冒険などという「遊び」と違って「腹のすわった死生観」があるはずだと何やら反省を込めて、彼への取材を決意するのである。ところが本村さんは漂流の8年後、漁に出たまま帰っておらず、再び行方不明になっていた。
彼はどこに行ってしまったのか。何が彼を海に向かわせたのか。著者は本村さんの自宅のある沖縄に出かけるのだが、取材の先々で肩透かしを喰(く)らう。関係者たちは一様に「わからない」「どうだろうなぁ」という調子。10年前のことなのだが、「そんな前のことはおぼえていない」などと答えたりするので一向に埒(らち)が明かない。行方不明になった地点もわからず、海賊船に襲われた? 北朝鮮に拉致された?「魔の三角地帯」に消えた? などの憶測が飛び交うばかりで、そもそもきちんと捜索したのか、と疑わしくなってくる。
調べてみると、本村さんの出身地にはかつて「補陀落渡海(ふだらくとかい)」という宗教儀式があったという。僧侶が南方海上にあるとされる浄土を目指して船で旅立つというもので、「事実上の自殺行為」。漂流は一種の伝統で、村の祖も漂流者だったらしい。戦後には密貿易や危険なダイナマイト漁の歴史もあり、死生観も腹がすわりすぎているようなのである。著者は自らマグロ漁を体験すべく、本村さんが出港したグアム島に赴いて漁船に乗り込むも、船酔いに苛(さいな)まれる。フィリピンまで足を延ばし、同乗していた船員たちを探し出し、かつて本村さんを救助した船員にもようやく辿(たど)りついて話を訊(き)くこともできるが、驚いたことに、彼も救助の5カ月前に台風に見舞われて1カ月近く漂流しており、漂流の日常性をあらためて思い知らされるのである。
著者は自然と人間というより人間関係の不条理に打ちのめされていく。その様子をジャーナル(航海日誌)のように克明に記録しているので、読んでいるうちに「もう帰っておいでよ」と声をかけたくなった。
海に限らず、親しい人を失うと「どこに行ってしまったのか」という欠落感に襲われる。それは取材で解明されることではなく、手を合わせて噛(か)みしめるしかないのだと私は思う。
(ノンフィクション作家 高橋 秀実)
[日本経済新聞朝刊2016年10月9日付]
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。