最高機密エージェント デイヴィッド・E・ホフマン著
スリルあふれるスパイの実話
キーホルダーに模した超小型スパイ・カメラ、万年筆に仕込んだ自殺用毒入カプセル、諜報(ちょうほう)員に指令を送るための暗号無線交信機。いずれもスパイ小説の話ではない。米中央情報局(CIA)に最高軍事機密を提供し続けた、冷戦期最大のロシア人スパイに関する実話である。1977~85年にかけてCIAの本部とモスクワ支局がやりとりした944ページに及ぶ電信記録の機密指定が解除され、ピュリツァー賞を受賞した記者が関係者のインタビューを交えて、旧ソ連国家保安委員会(KGB)とCIAによる生々しい諜報合戦の実態を明らかにした。
ソ連の軍事機密にアクセスできた軍事技師アドルフ・トルカチェフは、ソ連のレーダー技術や航空装備、兵器開発計画などの極秘資料を米国に大量に漏洩。その質の高いインテリジェンス情報により、米国はソ連に対する軍事的優位性を確立したほか、冷戦崩壊後の西側の対露戦略にも大きな影響を与え続けてきたとされる。その功績から、CIA本部には、カメラで機密文書を撮影するトルカチェフの肖像画が掲げられており、米国に10億ドル(約1千億円)の利益をもたらした英雄として今でも称(たた)えられている。
盗聴、変装、偽情報、国外脱出。本書には、スパイもののすべての要素が満載されており、映画を見ているようなスリルが味わえる。祖国への幻滅からCIAのエージェントを志し、ガソリンスタンドで米国外交官に接触を図り、KGBの影におびえながらモスクワの路地裏で機密情報をCIAに提供する様子などがリアルに描写される。米露の諜報戦の舞台がKGB本部に程近いモスクワ中心部の狭いエリアであったことにも驚かされる。また、77年8月にKGBの関与が疑われる米国大使館の火災が発生したが、KGBが機密資料を火事場泥棒することを恐れ、CIA支局長が火災現場を離れようとしなかったというエピソードも紹介されている。
トルカチェフはもとより、前代未聞の大物スパイに向き合うCIAモスクワ支局のエージェント達(たち)の心理描写なども巧みに表現されており、読み進むにつれ本書がノンフィクションであることを忘れてしまう。最終的にトルカチェフは逮捕、処刑されるのだが、そのきっかけを作ったのが、なんとソ連に亡命した元CIA職員による密告であったという。なんとも人間臭いドラマチックなストーリーであるが、現代の諜報戦は人間が介在しない形のサイバー空間に移行しつつある。
(防衛研究所地域研究部長 兵頭 慎治)
[日本経済新聞朝刊2016年9月25日付]
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