第三帝国 ロベルト・ボラーニョ著
欧州征服をやり直せるゲーム
1953年にチリで生まれた作家ロベルト・ボラーニョはメキシコでアングラ文学運動に関わった後、スペイン・カタルニア州へ移住してからの30~40歳代に集中して小説を書いた。2003年に50歳で亡くなって以来、それらの小説は各国語に翻訳され、今ではボルヘスやガルシア=マルケスの後を継ぐスペイン語圏ラテンアメリカ文学の看板作家とみなされる。
本書は既に邦訳のある作品群より少し前の1989年に書かれた比較的初期の長編で、カタルニア州の海辺のリゾート地に来たドイツ人ウドによる日記という体裁を取る。ウドは第2次大戦をモチーフにした軍事ボードゲーム《第三帝国》のドイツチャンピオン。日本ではあまり馴染(なじ)みのないこのゲームは一対一の知的な摸擬(もぎ)攻略戦で、欧州では大人気なのだとか。
問題は、独軍としてプレーするウドがナチによる(実際には起きなかった)欧州征服を何度でも違うパターンでやり直せてしまうということだ。現にウドは《第三帝国》の新たな攻略法の考案に明け暮れている。プラモデルで第2次大戦の独軍戦闘機を作ったことのある人はパッケージや塗装説明書からハーケンクロイツが削除されているのをご存知だろう。第2次大戦をテーマにした遊戯ではナチの扱いに極めて慎重にならざるを得ないのである。
ところがこのゲーム《第三帝国》ではナチが連合軍を(実際には負けたはずの)様々な戦線で何度も異なるやり方で破っていく。ウドは特に偏った思想の持ち主ではなく、恋に友情に、あるいは滞在しているホテルの謎めいた女主人への憧れに揺れている純真な青年なのだが、その彼の平凡極まるリゾートでの日常がゲームの忌まわしさによって少しずついわば汚染されていくあたりの描写が実に巧みだ。そして、ビーチで働いていた顔に大きな火傷(やけど)の痕をもつ南米出身の謎の青年がゲームの相手(連合軍)になってからウドは精神的に追い込まれ、彼の周囲にも不穏な空気が流れ出す。
ボラーニョの小説には「邪悪」に関する2つの主要なイメージが繰り返し現れる。第2次大戦をはじめとする巨大な影のごとき組織的暴力、女性等の弱者に対する苛烈で不条理な見えにくい暴力。またその狭間(はざま)で幻視をする詩人が多く登場するのも短篇(ぺん)等に見られる特徴だ。その集大成は大長編小説『2666』であるが、本書にもその萌芽(ほうが)が既に見られる。死してなお現代世界文学の先端を走り続ける作家の全体像を把握するうえで必読の書。
(ラテンアメリカ文学者 松本 健二)
[日本経済新聞朝刊2016年9月25日付]
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