ヒトラーの娘たち ウェンディ・ロワー著
有罪を免れた女性とその理由
第2次世界大戦時にナチ・ドイツは、自国内および占領下の東部――すなわちポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、バルト3国――において、「最終的解決」と称してユダヤ人といわゆる「反社会的分子」「劣等人種」の大量殺戮(さつりく)を行った。その数は600万人以上ともいわれる。さらにアメリカのホロコースト記念博物館の研究によると、ナチ収容所の数は4万を超えるという。
これだけの大量殺戮を可能にするためには社会全体が関与していたはずである。1996年にドイツ国内で巻き起こった「ゴールドハーゲン論争」の結論も、ドイツの市井の民衆が自発的に戦争犯罪に加担していたということだった。「あれはナチが勝手にやったこと」という自らの有責性を否認する詭弁(きべん)には終止符が打たれたのだ。
それにしても、この「市井のドイツ人」には、なぜか、そのほぼ半分がすっぽり抜けている。それは女性の存在である。
本書によると、第2次大戦期に、ナチ占領下の東部に50万を超える若い女性が教師、看護師、秘書、福祉士、そして妻として派遣された。はっきりしていることは、彼女たちはすでにナチ的衛生学や人種生物学にどっぷり浸(つ)かっていたことだ。彼女たちは「総統の伝道者」「文化の担い手」としてジェノサイドを初めて直接目撃し、たじろぐが、ヒトラーの目論(もくろ)む戦争が「絶滅戦争」であると理解するのにはそう時間はかからなかった。愛国的ドイツ人という自覚がこうした大量殺人の現場に無感覚となり、ユダヤ人から強奪した所持品を祝勝の名目で山分けするようになる。まさに彼女たちは、ヒトラーの殺人マシンの不可欠なパーツと化していた。
本書で取り上げた共犯者・加害者の十数人の女性の中で、有罪を宣告されたのは、たった1人である。何故だろうか。
彼女たちは自分の過去を葬り去ろうとして可能な限り偽証や黙秘をする。結婚して姓を変える。かつての同僚も犯罪事実を隠蔽し、あるいは隠滅する。裁判官は生存者の証言よりも証拠書類の提出を求める。
しかし、誰が犯罪現場で、それを書類に記述できるであろうか。しかも目撃者や生存者にとって、自分の家族・親戚を殺(あや)めた殺人者の名前は定かでない。何よりも、裁判官がナチ犯罪で被告人を有罪とすることに全体として抵抗を示した。これでは公正な裁判は望むべくもない。
かくして「ヒトラーの娘たち」のほとんどは、逃げ切ったのだった。
(法政大学名誉教授 川成 洋)
[日本経済新聞朝刊2016年9月18日付]
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