ユリシーズを燃やせ ケヴィン・バーミンガム著
害悪と見なされた小説の受難
誇張ではない。ほんとうに燃やされた。『ユリシーズ』は、暖炉でゆらめく炎のただなかに、何度もくべられた。二十世紀がはじまって、まだ間もない頃。
卑猥(ひわい)、わいせつ、害悪。そう見られることは、むろん、作家ジェイムズ・ジョイスにもわかっていた。それでも切実に、書かなければならなかった。書くのが当然だった。「ことば」に対し、この上なく敬虔(けいけん)だったから。「うんち」も、「皇太子」も、名詞であることにおいては同じ価値をもつのだから。
だから、燃やされた。『ユリシーズ』は。異教徒のように。
本作中、執筆中のジョイスは、胎児をうちにはらんだ妊婦だ。命をかけた母親なのだ。いっぽう、出版社やパトロンの女性たちは、父親然としている。
「心配するな、いざとなったら、俺が万端めんどうをみるから」
そうして、『ユリシーズ』はうまれる。真っ青な、ギリシア風のうぶ着をつけ、アイルランド訛(なま)りの産声を、未来の空へ響かせる。
生後すぐ受難にあう。うんちした、といって、赤ん坊が火あぶりにされるようなもの。『ユリシーズ』。その名をラジオで呼ぶことは禁止、国境をこえてもちこむのは禁止、学生が読むのは禁止、講義に使うのも禁止、もっていることさえ禁止。
まわりの「父親」たちは、法の目をかいくぐって、『ユリシーズ』を懸命に、待ち受けるもののもとへ、送り届けようとする。うまくいくときもあれば、しくじってしまうときもある。
本作のページをたぐるうち読者は、『ユリシーズ』と同じ船に乗り合わせ、波にあおられ、塩辛い海を運ばれていく、そんな目眩(めまい)をおぼえるだろう。
やがて『ユリシーズ』に「海賊」が目をつける。ジョイスのあずかり知らないところで、何千何万と海賊版が刷られる。ジョイス家は内側からばらばらになっていく。作家ジョイスの目は梅毒でつぶれてしまう。
『ユリシーズ』はだんだんと、父の手、母の手を離れ、とんでもない悪ガキに育ってゆく。大西洋をかきまわし、大陸間をまたいで暴れまわる。
ギリシア神話のオデュッセウス(ユリシーズ)は、なかなか故郷、イタケー島に帰れない。小説にとって故郷とはどこか。もちろん、読んでくれるひとの胸のなかだろう。「ユリシーズ」は、切実に生み出され、あてどなくさまよい、そうして、いつかどこかの胸へ帰っていく。
作中「はぐれ者の聖書」と呼ばれている。「ユリシーズ」をいいあらわす、これ以上のことばを、ほかに思いつかない。
(作家 いしいしんじ)
[日本経済新聞朝刊2016年9月11日付]
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