茨城・霞ケ浦の帆引き船 湖上に咲き誇れ
船大工、田上一郎
毎年夏から秋にかけ、茨城県の湖、霞ケ浦の湖面を大きな白い帆を広げた帆引き船が走る。風をいっぱいに受けた帆が丸く膨らむ姿はとても優雅で、一目見ようという観光客でにぎわう。いっとき、帆引き船が姿を消したとき、二度と船を造ることはないだろうと諦めたこともあった。観光用として私の造った船が浮かぶのを見るたび、船大工冥利に尽きると思うのだ。
帆引き船が考案されたのは1880年。現在のかすみがうら市に住む漁業関係者の折本良平が、シラウオやワカサギ漁業のために発明した。定置網や張り縄漁に比べ、移動しながら広範囲に魚を追え、漁師の間で瞬く間に広がったという。
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17歳でこの道に
沖に出て網を降ろし、竹製の帆柱に幅16メートル、高さ9メートルの帆を引き上げ、風の強弱に応じて調整しながら進むと、網に魚が入ってくる。風がなければ身動きが取れないが、強すぎれば転覆の危険がある。適度な風が吹き抜ける霞ケ浦の自然の摂理にかなった漁法だった。
祖父が帆引き船製造の田上造船を興したのは1909年。私がこの道に入ったのは終戦間もない48年で、17歳の時だった。一人前の船大工になるには5年かかるという世界で、2代目の父に教わりながら経験を積んだ。しかし、2年を過ぎた頃、父が脳梗塞で倒れ半身まひになってしまった。
それからは近所にある3つの造船所を転々としながら学んだ。中には職人気質の人もいて、教えを請うても一切助言をしてくれないということもあった。それでも、先輩の手元や腕の振り方を見つめ、見よう見まねで作業手順を覚え、すべてを頭の中に刻み込んだ。
木造船を造る難しさはいくつもあるが、湖面に浮かべるものだけに、浸水しないようにするのが一番大事だ。丸木舟のように一本の木をくりぬけばいいわけではなく、建築物のように四角四面の板を張り合わせればよいわけでもない。曲線のある板と板を隙間のないよう張り合わせるため、熟練の技が求められる。
材料には千葉県北部の杉を使う。油分が多く腐りにくいためだ。船体の曲線は杉材に火をあてながら曲げていく伝統技法を駆使する。湿度のないカラッと晴れた日に板を張り合わせる必要があるなど、何かと気苦労も多い。完成するまでの工程は1000を超える。
決まった図面がないのも特徴だ。強いていえば、これまで造られてきた船が見本となる。自分なりに設計図を引いて造ったこともあったが結局、経験がものをいった。
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60年代から姿消す
製造段階では漁師からの要求も受け付ける。例えば帆を広げるために船体の前後に張り出す「出し棒」の長さは船体ごとに調整する。スピードか安定か、どちらを重視するかで船底の勾配を調節することもある。強風で帆柱が折れたり、板が剥がれたりした時の修理もした。漁をしていた当時は夜間に操業していたから、夜中に呼び出され、真っ暗闇の中を駆けつけたことが何度もあった。
最盛期は休む暇も無く、2~3カ月に1隻のペースで船を造った。霞ケ浦全体で造船所が10軒もあった頃のことだ。しかし、60年代後半から木造ながら船体に大きなエンジンを備えた漁船が出回り、帆引き船は徐々に姿を消した。同時に造船所もたたまれていった。
技術を引き継ぎたいと船大工になった息子の勇一らと共に、94年に復活した観光船用の帆引き船を計4隻造った。だが、経験に乏しく技術の継承は難しいのが実情だ。数年前には繊維強化プラスチック(FRP)で造られた船もできた。木造よりも耐久性がよく、手入れもしやすい。すべての船がFRPになる日がくるかもしれない。
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若手の操船者現る
しかし、暗い話題ばかりでもない。高齢化により船を操る操船技術の継承も課題だったが、近年、若い担い手が現れた。まだまだ木造の船も現役で、末永く乗り継いでいってもらいたい。
いつからか生活排水が流れ込んで汚れてしまった霞ケ浦の水だが、昔は透き通ってきれいだった。子供の頃よく泳ぎに行ったし、漁師は捕った魚を湖の水で洗ったり、水を沸かしてゆでて食べたりしていたほどだ。
今でも目に焼き付いているのは船がまとまって一斉に漁場に向かう光景だ。それはまさに「湖上に咲く白い花」だった。再び美しい湖面に咲き誇る日が来てほしいと思う。
(たがみ・いちろう=船大工)
[日本経済新聞朝刊2016年9月5日付]
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