「イスラム国」の内部へ ユルゲン・トーデンヘーファー著
戦闘員たちの心象風景に迫る
「イスラム国」ISの解説は多いが、その支配地域の取材を踏まえた本は少ない。その数少ない中のひとつが、本書である。著者のユルゲン・トーデンヘーファーは、第三世界の報道に関しては数々の実績を誇るベテランである。IS関係者との接触を通じて信頼関係を作り上げ、その指導層の招待という形で現地に入る。細心の安全対策を講じての訪問だが、もしワナであれば、単に人質となるだけである。大変な危険を冒しての大胆な取材である。ジャーナリストの現地を取材したいという希望と自分たちの支配の「実情」を見せたいというIS側の意向が重なって実現した訪問である。
トーデンヘーファーは、IS側が外部に対して見せようとする実情を詳細に描き出している。そこでは驚くほど普通の日常生活が行われている。ISは、その統治の安定性を誇示したいのであろう。そうした現地の風景写真の一枚一枚が興味深い。同時に対応に当たったヨーロッパ出身のIS関係者の発言が、さらに興味深い。たとえば、外部ではISの首都はシリアのラッカとされているが、ISの戦闘員は実はイラクのモスルの方を重視している。またラッカの住民には反IS感情が強く、今でもシリアのアサド政権が住民に給与と年金を支払っているなどという発言も記録されている。現場でしか知りえない情報であろう。
さらに、著者とIS戦闘員との「対話」に引き込まれる。ISの残虐行為はイスラムの寛容な教えに反しているのではないかとの執拗な問いかけを、著者は繰り返し投げかける。しかしながら、ISの戦闘員は正面きっての真摯な返答はしない。戻ってくるのは、若者たちの不機嫌な表情ばかりである。その表情に時には著者は身の危険さえ覚えている。精神を病んだり、家庭的に恵まれなかったりした若者たちが、「イスラム」を掲げて残虐行為に走っている。これが見えてくる構図である。とするとISは政治現象であるばかりでなく病理現象でもある。
トーデンヘーファーが描いているのは「イスラム国」の風景であり、そこで戦う人々の心象風景である。そして、自らの社会から落ちこぼれた人々を送り出したヨーロッパ社会の現状である。ISの問題が、えぐり出しているのは、中東のシリアやイラクのような人工国家が抱える構造的な問題ばかりでなく、社会に不適応な多くの若者を生み出したヨーロッパ社会の制度的な病巣そのものでもある。これは、日本の問題でもあろう。
(放送大学教授 高橋 和夫)
[日本経済新聞朝刊2016年8月28日付]
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。