杉本博司さん、「終末のシナリオ」題材に大規模個展
破局を語る冗舌な物たち
展示室に足を踏み入れて、ぎょっとした。照明を落とした薄暗い空間は赤さびたトタン板で仕切られ、まるで迷路のよう。奥の方からは機械音のような怪しげな物音が聞こえてくる。これが美術展? いったい何が展示されているのか。
9月3日から11月13日まで、東京・恵比寿の東京都写真美術館で開かれる「杉本博司 ロスト・ヒューマン」展。思索的な写真作品で世界的に評価されている現代美術作家の大規模個展だ。7月下旬、展示室の暗がりの中で作品を自ら撮影している作家の姿があった。
「これはもう、ほとんどお化け屋敷だよね」
その言葉どおり、奇怪なオブジェがひしめいている。能面を被って横たわるミイラ。ロックンロールを歌い踊るおもちゃのロブスター。うつろな視線を漂わせるラブドール(疑似性交用の人形)。自らの写真作品も。だがそれは2012年に米国を襲ったハリケーンで水没し、半ば溶解したもの。異様なオーラが目を引きつけて離さない。
展覧会の前半部分「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」は「文明が終わる33のシナリオ」を自ら書き、オブジェで表現したシリーズだ。観客はトタンで区切られたブースを経巡(へめぐ)る。
その「シナリオ」がまたきわどい。「女性の社会進出が進んだ結果、男はラブドールを愛玩し、子供が生まれなくなった」「ジャーナリストが政治家の不正を追及しすぎたため、政界には魅力のない無能な人間しか残らず、社会が機能不全に陥った」。本人いわく「嫌みな老人」の毒の利いたブラックジョーク。
「いつか来るといわれてきた世界の破局が自分の代で起きるとリアルに感じるようになった。平安時代には末法思想が広がったが、いま本当の末法がやってくるという嫌な感じがする」
展示物は古美術収集家でもある作家自身のもの。古物を素材にして未来の破局を語るところに、この作家らしいアイロニーがある。
「物自体に語らせたい。たとえばこの石おの。実際に握ると、歴史が手から流れこんでくるのがわかる。それを感じるのは、書かれた歴史を読むのと同じ。すべての物は存在を訴えている。見る人にもその声を聞いてほしい」
若き日に心引かれたマルクス主義に引っかけて「これが本当の『唯物史観』」としゃれてみせる。物たちのとめどない冗舌さに圧倒されているうち、物に執着する人間へのシニカルな視点も浮かんでくる。展示の中に1933年に米国で発行された兌換(だかん)紙幣ドル札があった。「これ、額面は20ドルだけど、700ドルで買ったの。皮肉だよね」
展示は2部構成。見せ物小屋的な第1フロアを出て、第2フロアに入ると空気が一変する。廃虚化した古い映画館の内部をスクリーンの光のみで撮影した大型写真「廃墟劇場」、そして京都・三十三間堂の仏像を撮影した「仏の海」の2シリーズが展示された静謐(せいひつ)な空間だ。「諸行無常の感覚はどんな人間の心の琴線にも触れる。この世界の終わりが、自分という人間の終わりと一致したら幸せではないか。そんな思いが私の中にある」
◇ ◇
遠大な時間感覚 満ちる
「古代人が見た海を見たい」と世界中の凪(な)いだ海の姿を緻密な階調で撮影した「海景」、動物や原始人など博物館のジオラマを実景のように撮った「ジオラマ」など精緻でコンセプチュアルな写真作品が高く評価されてきた。通底するのは遠大な時間感覚だ。太古から未来までを見晴るかす想像力が「終末」に向いたのは自然なことなのだろう。
「私はペシミスト(悲観主義者)であり、オプチミスト(楽観主義者)」とうそぶく。「文明が終わる33のシナリオ」の多くは、人間が自らの欲望の果てに破滅する、いわば「自業自得」の物語だ。戦争に関するオブジェも多い。「いっとき反省しても、また欲望を満たそうと走り出すのは人間の性(さが)。これはもう、どうしようもない」
痛烈なシニシズムと、超越的なものへの憧れ。振幅の大きい展示は、作家の集大成の感がある。「歴史と未来をとらえる大きい視点を感じてほしい」と担当学芸員の丹羽晴美氏。展示を見るうちに、こちらの脳内も熱くなってきた。
(文化部 干場達矢)
[日本経済新聞夕刊2016年8月24日付]
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