のり養殖、消えた一大産地 東京・大森にみる盛衰
64年五輪などの港湾整備で幕
2020年の五輪に向け各所で再開発の計画が相次ぐ東京。変わりゆくこの都市の開発と発展の歴史の中で、静かに消えていった産業もある。その一つが、かつて東京湾で盛んだったのりの養殖だ。江戸時代から昭和にかけてのりの一大生産地として栄えたという大田区の大森で、のりの歴史をたどってみた。
目指したのは「大森 海苔のふるさと館」。2008年に開館した大田区の資料館で、展示してあるのはほとんどが養殖に使われた実物、かつ国の重要有形文化財に指定されているという貴重な資料。「のりに特化した資料館は全国でも類がない」(職員の三好周平さん)そうで、各地の生産者も見学に訪れる。
のり食の歴史は1200年以上さかのぼるが、大森や品川でのりの生産が本格化したのは18世紀前半の享保年間という。のり生産に対する税金が大幅に上がった時期などから推察されるそうだ。のり養殖の技術は江戸時代に、この周辺から全国に広がっていったという。
周辺での養殖の最盛期は大正末期から昭和初期にかけて(1920~1930年代頃)といわれる。だが64年の東京五輪などに向けた港湾整備に伴い、62年の冬に漁業権を放棄。翌63年春に最後の収穫を迎え、一帯でのり養殖の歴史は幕を閉じた。
この地域で養殖が盛んだったのには理由がある。海が遠浅で波が穏やかなことや、適度に潮の満ち引きがあること。加えて多摩川が山から豊富な栄養分を運んでくることなどで、のり養殖に向いていたためだ。
300年に満たないほどの歴史の中で、興味深いのは道具の変遷だ。海中でのりの胞子を付着、成長させる用具「ヒビ」は木から竹、網へと変化。収穫したのりを細かく切る道具は、本は1枚刃の包丁だったものがどんどん刃を増やし効率化。昭和の初めには6~8枚の刃を並行に固定し上部に垂直に柄を取り付けた「突き包丁」が登場し、戦後はひき肉を作るものと同様のチョッパーが普及した。
最寄りの京浜急行電鉄の平和島駅までの帰り道、「創業300年」などの看板を掲げるのり店が目に付いた。大森周辺では養殖が終わった後も問屋が多く残り、全国で生産されたのりを扱ってきたそうだ。
かつて養殖されていたのは「アサクサノリ」という品種で、絶滅危惧種の指定も受ける。病気に弱く育てにくかったため現在の養殖は別の品種が取って代わり「アサクサノリが市場に出回ることはめったにない」(三好さん)という。「とろけるようなおいしさだった」。かつての生産者がそう懐かしむというのりの味を、ぜひ一度、堪能したいものだ。
入り江や干潟を持つ海浜公園
「大森 海苔のふるさと館」は7月16日に来館者数が70万人を突破した人気の施設だ。のりを作る体験や養殖に使う網の編み方を活用した工作などの教室も実施。ボランティアらと共に養殖技術の継承に取り組んでいる。
同館の3階にある展望・休憩室からは「大森ふるさとの浜辺公園」を一望できる。入り江や干潟を持つ都内では初めての区立海浜公園として整備された公園で、浜辺はかつての大森海岸を再現したという。
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