陸軍士官学校事件 筒井清忠著
二・二六と関係深い事件解明
最近、各国で非道なテロやクーデターが多発しているが、わが国の近代史上でも同様の事件が起こっていることは注目されてよい。あまり話題にならなかったが、今年は1936年に陸軍の青年将校たちが引き起こした一大クーデター、二・二六事件から80周年にあたる。
陸軍士官学校事件は、この二・二六事件と密接な関係をもつ。事件自体の大要は、34年、陸軍内での主要ポストをめぐる派閥抗争激化のなかで、統制派の辻政信大尉が配下の佐藤士官候補生を敵対する皇道派青年将校たちのもとへ「スパイ」として送り込み、そのクーデター計画を告発させた、というものである。この結果、免官されて野に下った青年将校たちは翌々年の2月26日に「国家革新」を叫んで決起、複数の重臣を殺害する。
このように、士官学校事件とは、二・二六事件という国家体制をも揺るがした一大テロ事件の引き金ともいえる重大事件なのである。戦後、このクーデター計画なるものがでっち上げであったか否かをめぐって議論はわかれてきたが、不思議なことに学問研究の立場から事件の全体像の解明が試みられたことはなかった。
著者は、士官学校による取り調べ記録などの一次史料を駆使して、この問題に挑む。人により微妙に異なる証言などを緻密に比較、精査するなかで浮かび上がってきたのは、むしろ年若い佐藤候補生の方が国家革新への意欲、主体性をもって青年将校たちの覚悟の程を問いただすという、私の思い込みを裏切る姿であった。将校たちは目下の者に弱みを見せられず、空想的なクーデター計画をさも現実味があるかのように喋(しゃべ)ってしまったのだ。
私が興味深く感じたのは、では佐藤が真に革新という正義に燃えていたのかというと、そうでもなかったらしいことである。彼は事件発覚後に収監されるとふさぎ込み、早く出してくれと泣きわめいていた。そんな彼を同期生は「思想のシの字もない男」とみていた。
佐藤が正義と信じていたのは、青年将校たちの運動に勧誘されて道を踏み外しかけている同期生を救え、という辻の指示であったらしい。辻は佐藤の若者らしいヒロイックな感情につけ込み、権力闘争上の手駒に使ったのだ。若者が年長者の舌先三寸でいいように使われるというよくある図式だが、結果は先に述べた通り重大である。
本書はこの歴史の悲喜劇というべき事実の解明を通じ、軍による「革新」運動の本質をも浮き彫りにした。
(埼玉大学教授 一ノ瀬 俊也)
[日本経済新聞朝刊2016年8月14日付]
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