英語という選択 嶋田珠巳著
アイルランドの複雑な言語史
言語名=国名+「語」。多くの人がこれを信じている。日本は日本語、中国は中国語、フランスはフランス語。単純明快。
ではアイルランドは?
ここで突如として意見が分かれる。そりゃアイルランド語でしょ。いやいや、それはほとんど使われなくて、結局は英語らしいよ。でもアイルランドの英語って、独特みたいだし。
答えを知りたい方には、本書をお勧めする。一言では語り尽くせないアイルランドの複雑な言語状況が、豊富なデータをもとに明らかにされる。
まずは基本から。アイルランドの憲法にはアイルランド語が国語で第一公用語、英語が第二公用語であると記され、人々もそう認識している。だが実態はそれほど単純ではない。
読み説くカギはいくつかある。
アイルランド語が現在どのくらい使われているかなど、現状を知りたければ第2章を読むといい。英語が主流になるまでの歴史的経緯や、アイルランド語と英語のバイリンガル国家を目指す現代の取り組みなども紹介される。
アイルランド英語に特徴的な語法については第5章に詳しい。時や情報構造の表現などは、言語学的にも興味深い。
だが本書の圧巻は、「個人の気持ち」であろう。アイルランド人にとってアイルランド語はどのような存在か。自分はどのくらい使いこなせるか。アイルランド英語をどう考えるか。アンケート調査をもとに、アイルランド人の言語に対する感覚が紹介される第3章と第4章で、著者は生の声に耳を傾ける。
「アイルランドの人たちにアイルランド語の話をすると、ふたことめには『自分たちは話さないけど、田舎の方へいけばアイルランド語で話しているよ』などと返ってくる。(……)アイルランド語を話している地域があるということ、アイルランド語を話すアイルランド人がいるということが、どこかしら安心感を生み出しているようなのである」。本書を通して、多くの読者は舞台を日本に置き換え、英語の氾濫や伝統方言の喪失について思いを馳(は)せることだろう。言語はコミュニティー単位ならば3世代で替わりうるという。だがそのプロセスは複雑で、安易な比較は慎まなければならない。
言語名=国名+「語」なんて、話はそれほど簡単ではない。たとえばイギリスがEUから離脱すれば、英語が公用語から外されるのか。将来を占うヒントが本書に潜んでいるかもしれない。
(言語学者 黒田 龍之助)
[日本経済新聞朝刊2016年8月14日付]
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