悪声 いしいしんじ著
声や音 いのちの響き 目で聴く
廃寺のコケのうえにそっと置かれた「なにか」。なにかとは、サムシングのなにかであろうか。それはまだ、誰にも命名されていないし、ついに一つの名では呼べないものだ。子のない夫婦のところへ預けられ、幼子から十四歳、十六歳と成長していくものの、一個の限定された肉体があるようには感じられない。「オニちゃん」とか「人間虎」とか、変幻する名称で呼ばれもするこの子には、生命体そのものが持つ生々しい「抽象性」が与えられている。
生々しさとは、普通、具体物が備えるもの。だが物語の全体に息づいているのは、ピチピチと生きた「抽象」である。名辞以前の世界のそよぎ。作品の空気がなまめかしく動いている。それを味わうためには、読む方もまた、観念の上で肉体を解き、一つの「声」となって、この物語に唱和すればいいのかもしれない。
初めのほうで、「なにか」が語るコケのことばは、次のように表されている。
「たとえていうと、風景が一気に、耳へ流れこんでくるみたいでしてな。山や、とおもて、ようようみたら何千本の樹林やったり、樹林か、とおもて、じいっとみてたら何億枚の葉っぱやったり、そんなふうに、たった一声のなかに、すべてがあらかじめはいったある。ぜんぶはききとれまへんで。ただ、とほうもなく、はてがなく巨大なようでいて、その声はやっぱり、わけようのあらへん、たったひとつの声なんやということもわかる。(……)」
このように、声や音、音楽が、目に見えるように書かれてある。わたしたちはこの物語のなかで、いのちの響きを、目で聴くのだ。失われた共感覚が蘇(よみがえ)ってくるようだ。読んでいると、思いがけないところでツボを押され、眠っていた感覚が目覚めてくるのがわかる。懐かしくてあたたかい源に触れたような。しかし静かに鎮められるというわけでもない。むしろ覚醒させられる作品だと思う。
よき声をもっていた「なにか」は最後、悪声となり、この世の外へ飛び出していくように読めるが、この「悪」には、他のどんな声にも似ていない、己の声がついに己の声であることの哀(かな)しみが響いているように思う。
最終章には、「石くれひとつ、木片ひとつとってみても、うたっていないものなどこの世にはなにひとつなかった」という一文があった。言葉以前の豊かな世界では、存在することが歌うことだった。狂気を帯びた生命の眩(まぶ)しさが、歌声となって聞こえてくる。
(詩人 小池 昌代)
[日本経済新聞朝刊2016年7月31日付]
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