フジロック20年 台風乗り越えフェス文化の道開く
日高正博 コンサート企画会社、スマッシュ社長
自然の中で音楽を楽しむ野外イベント、フジロックフェスティバルを主催して20年目になる。初回はその名の通り富士山麓で開いたが、翌年は東京の豊洲に移転。3回目から新潟県の苗場スキー場に定着し、毎年夏に開催してきた。
今年7月22~24日で20回目を迎える。今や日本にフェス文化が根づいた感があるが、多少なりとも道を切り開く役割を果たせたかと思っている。
1983年に今のコンサート企画会社を旗揚げした。英国を訪れ、広大な牧場で開かれるグラストンベリー・フェスを見て「いつか日本でもやりたい」と感銘を受けた。
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暴風雨で2日目中止
グラストンベリーではアートやサーカス、演劇、お笑いなど、音楽以外の要素が音楽を取り巻いている。その無駄の多さに魅了された。まさにフェスティバル、お祭りだった。
愛車のジープにテントを積み、会津磐梯山や浅間山、木曽御嶽山などをキャンプしながらフェスの場所を探し回った。東京から近いという理由で選んだのが第1回の天神山スキー場だった。
忘れもしない97年7月26日土曜日。富士山に台風が迫っていた。ゲートを開けると若い観客が押し寄せてきた。女性はワンピースにハイヒール。雨具も持っていない。「標高は千数百メートルに及びます。寒くなります」。事前に注意喚起したつもりだったが、周知できなかった。ステージが進むにつれ、雨は激しさを増した。ずぶぬれの男女は消耗していった。
国内外の一流アーティストが快く出演依頼を受けてくれていた。1日目のトリは、米国のレッド・ホット・チリ・ペッパーズ。彼らには「フェスをやる夢がある」と何年も前から明かしていた。ボーカルのアンソニーは手を骨折し、医師から止められていたのに「そのときは絶対に行く」という約束を守ってくれた。
翌日は台風一過で晴れると分かったが、未明に2日目は中止と決断した。観客は疲弊していたし、会場はぬかるみ放題だった。海外アーティストたちは「なぜやらない。海外ではこの程度は当たり前だ」と猛反対したが決定は変えなかった。
我々スタッフは天から水をかけられたわけだ。この経験があったからこそ謙虚になり、20年続けられたのだと思う。
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林の中に天国の空間
翌98年はとりあえず東京湾の埋め立て地で開催した。日よけテントを用意するなど、暑さ対策に力を入れた。幸い、大きな事故もなく終わった。
「次は苗場でやりませんか」。苗場プリンスホテルから提案を受けた。即座に断った。車で各地を回ったとき、十分に検討したつもりだった。しかし現地を訪れて気が変わった。ホテルから少し離れた森の中に、夢の空間を見つけたのである。
99年から苗場で開くと決めた。ゴルフ場やテニスコートは4万人余り収容できるメーン会場「グリーンステージ」に、奥の駐車場は1万人余りの第2会場「ホワイトステージ」に充てた。
開催を2カ月半先に控えた99年5月に現地を訪れ、ホワイトステージ予定地の先にも道が続いているのに気づいた。林の中を歩くと、ぽっかり開けた場所に出た。もう一つステージができるぞ。天国のような空間だから「フィールド・オブ・ヘブン」と名づけた。その後も年を経るごとにステージを増やしていった。
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観客のマナーに感心
20年続けてきて感心するのは、観客のマナーの向上だ。ゴミの少ないフェスとして世界的に知られるようになったが、ボランティア諸君の奮闘とともに、来場者の意識に負うところも大きい。
苗場は高原で天候が変わりやすく、寒暖差も激しい。観客の多くがしっかり準備してくれるようになった。雨が降り出すと、観客が一斉にレインコートを取り出し、さっと着替える。あまりの見事さに、ある米国のバンドが目を丸くしていた。
今年はチリ・ペッパーズやベックをはじめ、第1回に来てくれたアーティストが何組か出演する。23日の夜はグリーンステージで往年のグレン・ミラー楽団のスイングジャズを楽しんでいただく。そんな初の試みも用意している。フジロックの「ロック」は狭い意味のロックだけではないのだ。
自分には夢がある。親子孫の3代そろって、同じステージを見てほしい。親子は見かけるが3代はまだ少ない。その環境をもっと整えなくては。20回で満足などしていられない。
(ひだか・まさひろ=スマッシュ社長)
[日本経済新聞朝刊2016年6月30日付]
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