炭坑節 労働者の思いこもった数々、歌い語り継ぐ
炭坑節語り部、原田巌
「月が出た出た――」。地域の祭りの盆踊りで披露される炭坑節。「サノヨイヨイ」とにぎやかに歌われるが、もともとは炭坑で働く人の仕事唄だ。重労働で、落盤など生死に関わる事故も絶えないなか、切なさや苦しみを紛らわすため口ずさんだ。それが大衆歌に変遷し今に伝わっている。
私の父と祖母も福岡の筑豊地方の炭鉱労働者だった。歌に込められた思いを伝えようと、発祥の地の福岡県田川市で2008年から語り部として活動。市の石炭・歴史博物館などで人々に炭坑節を披露し、その背景と歴史も語り継いでいる。
定年後、歌詞に衝撃
本来は私も炭鉱マンになるはずだった。父が三井田川鉱業所・伊田坑(田川市)の採炭員をしていた縁で、高校は三井直営の鉱員養成所の三井田川鉱業学校に進学。だが卒業の前年の1958年、校長に「採用できない」と告げられた。石炭から石油へのエネルギー革命が忍び寄り、鉱山経営を圧迫しつつあった。
父はショックだろうと思った。稼業を継がないのだから。しかし報告すると、心からの安堵の声が返ってきた。「よかったのう。やっと炭鉱から縁が切れたのう」。父は坑内の落盤事故で二度生き埋めに遭った。愚痴を言わない父だったが、命がけの仕事に耐えてきた思いを初めて垣間見た。
それから半世紀後の08年。セメント会社を定年退職後、詩吟の宗家として活動していた私にNHKから出演依頼があった。民謡番組で、炭坑節の元歌とされる「伊田場打ち選炭節」を歌うよう言われた。指定の歌詞は「雨のしょぼしょぼ降る晩に 唐傘片手に赤子抱いて 坊や泣くなよネンネしな 男ながらのもらい乳」。私は稲妻に打たれたような衝撃を受けた。父を歌っている――。
祖母は21歳のときに落盤で亡くなり、生後6カ月だった父は親戚に育てられた。父と祖母、何万人もの炭鉱員の声が心に響いてきた。「私たちの苦楽を歌と共に伝えてくれんか」。私は炭坑節の語り部という仕事に余生をささげようと決めた。
数百に及ぶ歌が誕生
筑豊にどのような炭坑節があったのか。関連文献や郷土史料にあたり、炭鉱の歴史と合わせて調べ始めた。07年に頭蓋骨骨折による外傷性くも膜下出血を患い、記憶力が著しく低下したのだが、炭坑節に関する事柄はいくらでも覚えられた。
筑豊で炭坑節は古くから歌い継がれていた。起源とされるのが江戸・元禄期に田川で歌われた「番田河原唄」。それをはじめとして昭和初期に至るまで「ゴットン節」「石刀唄」「コリャコーリャ節」など、作詞作曲者の名が残らない歌が地中から湧くように生まれた。その数は記録されているだけで数百に及ぶ。
「いやな人繰り邪険の勘場 情け知らずの納屋頭」(ゴットン節)といった労苦を歌ったもの。「ザリガニ取ってなんするの ゆうげのかゆのさいにする」(ザリガニのうた)と小さな鉱山で働く家の貧しさを表したもの。苦難だけが題材ではなく、男女の恋愛を小気味よく歌ったり、ひわいな歌もあったりする。
炭鉱で生きた一人一人の暮らしぶりが時を超えて、歌に生き生きとよみがえるかのようだ。盆踊りで流れる炭坑節は明治から大正にできた幾つかの歌が混ざり合って、昭和前期にレコード吹き込みとラジオ放送がされて今のかたちになった。
多くの歌が生まれたのはなぜだろう。私は父を思い出す。夜にヤマ(炭坑)に入るとき、父は同じ歌を口ずさんで出かけていった。明治の遊女ストライキを題材にした「東雲節」だった。ヤマに行くのは経験を重ねても嫌なもので、気分を切り替えるすべとして歌が欠かせないものだった。
世界遺産登録で期待
炭坑節を調べる一方、11年から田川市石炭・歴史博物館でボランティアガイドを始めた。来館者に炭坑節を歌い、炭鉱員の働きぶりや生活を説明している。地元の関連イベントにも出て、多くの人に当時を知ってもらうため活動に励んでいる。
最後に述べる言葉がある。炭鉱員は「炭坑太郎」と蔑まれてきた。私の経験でも「炭坑太郎の子に娘はやれん」と、相手方の親の反対で縁談が断られたことがある。だが産業の近代化に石炭採掘が寄与したのは事実だ。こうしたことを踏まえて「炭坑太郎が命がけで働いたから我々がいる」と語ると、うなずいてくれる人がたくさんいる。
炭鉱施設を含む「明治日本の産業革命遺産」が15年、世界遺産に登録された。国外からも観光客が訪れ、注目は高まる。私もいつか世界中で炭坑節を披露できればと夢を広げている。
(はらだ・いわお=炭坑節語り部)
[日本経済新聞朝刊2016年6月24日付]
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