戦争に翻弄された画家、山路商の生き様を追う
塩谷篤子
大正後期から太平洋戦争末期の広島に山路商(しょう)という画家がいた。髪は長く、黒縁のロイド眼鏡をかけ、足首まである黒いスモックをまとっていた。生まれつき足が悪かったこと、劇場に通って踊り子らの姿をスケッチしていたことから、「広島のロートレック」と呼ばれた。山路は私の母方の伯父である。
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アトリエに集う芸術家
私が9歳のときに亡くなったこの伯父のことを調べ、伝記にまとめようと思ったのは今から30年以上も昔のことだ。当時の広島画壇で活躍したが、作品の多くは原爆で灰になってしまった伯父。その人生を自分が書き残さねばならないと思ったのだった。
山路は1903年、国鉄に勤務していた父の転勤先だった新潟県長岡町(現長岡市)で生まれた。男女の双子だったが、助産婦の処置が悪く、女の子はすぐに命を落としてしまった。山路は足に障害があり、見るからに虚弱だった。
「この子は3歳まで生きないだろう」という医者の予想を裏切って、山路は元気に育った。手のつけられないいたずらっ子になったが、置き時計を分解してまた直してしまうほど手先が器用だった。やはり父の転勤先である大連で暮らしていた16歳のとき、近所にいたフランス帰りの画家に絵を習い始めた。
一家が広島にやってきたのは20年。当時の広島では洋画を知っている人もまれで、絵の具は大阪から取り寄せ、独学で勉強した。そんな広島がほどなくして中国地方随一の文化都市になっていったのは、23年に起きた関東大震災で被災した芸術家たちが帰郷したことが大きい。詩人の大木惇夫、画家の靉光(あいみつ)らが山路のもとに集い、アトリエはさながら芸術家たちの梁山泊(りょうざんぱく)となった。
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前衛芸術の裏方担う
原爆で破壊される前の広島は何と豊かな場所だったかと思う。地方都市でありながら、ボヘミアン芸術家が自由奔放に生きていた。山路らは談論風発しては酒場に繰り出し、金のある者がおごった。流川(市内の歓楽街)に戸板を並べただけの夜店を出し、自分たちが刊行した雑誌や全国から集めた同人誌を売った。小山内薫の前衛演劇が広島で上演されるときには、山路が装置を担当した。その舞台を詩人や歌人、画家らが総出で見にいったと伝わる。
山路が生きたのは欧州で新しい美術潮流が巻き起こった時代だ。フォービスム、キュビスム、シュールレアリスムなどを猛烈に勉強して作品に取り入れた。たとえばここに掲げた「犬とかたつむり」はシュールレアリスム的であり、形而上絵画風でもある。焼失を免れた20作品は広島県立美術館に所蔵されている。
先鋭的な画風の作品はなかなか売れなかった。山路本人もまじめに売る気がなく、街頭で似顔絵描きをやったりもしたようだが、悪びれず親のすねかじりで暮らしていた。それでいてラヴェルやストラヴィンスキーのレコードを聴きながら上等のコーヒーをいれて飲んでいたというのだからのんきなものである。
だがそんな自由な雰囲気が戦争で一変するとはだれにも予想できなかったであろう。山路の作品は危険思想を隠していると官憲ににらまれ、41年に検挙されて半年あまり拘束された。そこでのひどい扱いは虚弱な体にこたえたのだろう。釈放後は病床に伏し、44年に世を去った。40歳だった。
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親族の記憶集め刊行
棺の中の姿を私は覚えている。蝋(ろう)人形のように青白い顔の少し開いた口から小蠅(ばえ)が出たり入ったりしていた。アトリエの回転いすに腰掛けてパイプを吹かしていたあの伯父とは思えなかった。
伯父のことを本に書くといっても、自分の記憶だけではまとめられない。「広島市山路商様」という宛名で手紙が届くほどよく知られた人だったので地元の新聞社に尋ねたが、当時の新聞記事は残っていないという。国会図書館にも資料はなかった。
山路の弟である叔父に借りたわずかの資料をもとにまとめることにした。幸いにして調査を始めたときには山路のきょうだいが健在だったので、その話を聞けたのが大きかった。彼らも世を去り、預かっていた写真や切り抜きも色あせて像が消えかかる今、早く調査をしておいて本当によかったと思う。
広島県美主任学芸員の藤崎綾さんとの共著で、2014年に「山路商略伝」(渓水社)を刊行した。特許事務所で翻訳の仕事をしながらの調査と執筆でずいぶん長い時間がかかってしまったが、本の形で伯父の人生を残せたことに、今はほっとしている。(しおや・あつこ=会社員)
〔日本経済新聞朝刊 2016年5月25日付〕
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