水を得た魚 マリオ・バルガス・ジョサ著
大統領選の熱き日と作家前史
80歳となったペルーの《戦う文豪》マリオ・バルガス・ジョサ(習慣的にリョサと表記されるがジョサが自然)は1970年代以降のキューバ・カストロ体制に幻滅、その後はハイエクやフリードマン流の自由主義経済の考え方に深く傾倒し、87年にガルシア政権による銀行国有化宣言に反対する運動の先頭に立ったのがきっかけで自由主義経済を推し進める陣営からペルー大統領選に出馬するも、泡沫(ほうまつ)候補だったアルベルト・フジモリに敗北を喫した。本書はその直後の93年に刊行された大部の回想録だが、選挙についてやや興奮した筆致で書かれているのは偶数章のみで、並行する奇数章では自らの作家前史ともいえる若き日の楽しい記憶がより落ち着いた筆致で記されている。
大統領候補ジョサがペルーにその実現を夢見た自由主義を約言すれば、国民が自助努力のみで富を生み出せるインフラの整備、広範囲な起業精神の拡大に他ならない。そういえば今年邦訳が刊行された近作『つつましい英雄』の主人公は地方都市で奮闘する運送会社の社長だった。ジョサは、先進国では《新》自由主義という言葉で激烈な批判の対象とすらなる思想がペルーに必須の劇薬であると考える根拠として、量に限りのある国内資産の再配分を優先する左派的路線が現実には政治腐敗や経済的従属根性、場合によっては悪質な独裁体制しか生み出してこなかった中南米の歴史を強調する。政治家としての狡猾(こうかつ)さに欠ける(結果フジモリ流のポピュリズムに敗北した)ジョサが選挙戦を通じて残した遺産は、皮肉にもその主張の正しさ《だけ》だったかもしれない。
ペルーには貧富の差や人種の壁といった難題が山積する。自由主義経済政策を実行しながら貧困層もケアし、人口の3割以上を占め独自の共同体に生きる非スペイン語話者のインディオたちに起業精神を説く等というアクロバティックな政治は今世紀中に実現するかも怪しい。折しも今年6月に決選投票を控えたペルー大統領選は、本書でも登場するジョサ人脈のクチンスキーとフジモリの娘ケイコの一騎打ちとなった。ジョサ対フジモリのリベンジマッチである。日系女性大統領の誕生…と浮かれるメディアもあろうが、その前に本書を紐解(ひもと)き、混迷極まるペルー政治経済の生々しい現実を知っておくべきだろう。
なお奇数章では『都会と犬ども』や『緑の家』をはじめとする名作の舞台裏がのんびりと語られ、彼の文学のファンとしてはこちらのほうが読んでいて数倍楽しかった。
(大阪大学准教授 松本 健二)
[日本経済新聞朝刊2016年5月22日付]
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