ジャッカ・ドフニ 津島佑子著
北方民族の物語から「今」を透視
作品は2011年の9月の網走から始まる。オホーツク海の光のなかにカムイ・ユカラ(神の歌)が、静かに時差を越えてよみがえる。「ノックルンカ」というアイヌに伝えられた歌の意味はすでにわからなくなっているが、老巫女(みこ)の予言で、津波から逃れ生き延びよという内容である。作者を思わせる語り手はかつて8歳で不慮の死を遂げた息子と訪ねた、この地にあったジャッカ・ドフニの記憶を、6カ月前の地震と津波に重ねて想起する。
ジャッカ・ドフニとは1978年にサハリンの少数民族ウィルタ人のゲンダーヌという人物が創った民族資料館であり、「大切なものを収める家」という意味である。創設者の死後閉館となり、26年前のこの場所での記憶から、時をへだてて17世紀前半のキリシタン弾圧期の一人の少女の受難の物語が紡ぎ出される。
アイヌの母と鉱夫の日本人との間に生まれたチカップは、幼くして孤児となり、兄と慕うキリシタンの少年ジュリアンら一行とマカオへと、想像を絶する苦難の逃避行をする。母の歌うカムイ・ユカラの記憶が、アイヌとしての血を呼び起こし、秀吉の朝鮮侵略で捕虜として連れてこられたペトロや、長崎からマカオへ逃れるカタリナ、ナポリ人の船乗りが日本女性に産ませたガスパル、アフリカの奴隷のイブという女性など多様な民族の人々が、迫害と流浪のなかで出会い、巨大な海洋と遥(はる)かな故郷の物語が展開されていく。
カラフト、エゾ地、東北、九州からマカオ、台湾、バタビア(ジャカルタ)などの東北・東南アジアの広大な地域が作品の場として描かれ、少数民族の歴史やキリシタンの動向が物語の背景として浮かびあがる。そして史実と時間を越える想像力と、口承文芸の語りや歌謡のリズムが、小説世界に自在に魅惑的に横溢(おういつ)する。
作家は本年の2月に急逝し、この長編は遺作となったが、異国の地をさすらう17世紀の少女の姿は、戦争やテロ、差別や殺戮(さつりく)、核の恐怖や政治の暴力などに支配された、今日のグローバルな地獄絵図を透視させる。数多いこの作家の小説を通底してきた、現代における巫女的な物語の集大成として、この作品を読むこともできるが、時代に抑圧され、歴史の暴虐にかき消されてきたマイノリティーの声々を、このような世界文学と呼ぶにふさわしい、壮大なスケールの叙事的小説として完結させた力量に改めて瞠目(どうもく)させられるのである。
(文芸評論家 富岡 幸一郎)
[日本経済新聞朝刊2016年5月22日付]
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。