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同社初となる経営企画室の立ち上げにかかわる。

経営企画室時代、米アイオワ州などで大豆畑を視察。広大さに驚いた

1990年に突然、目標管理推進事務局という部署に異動になりました。上司に何をやるセクションか聞いても知らないという。担当は課長の私と部下の2人だけ。後に経営企画室の準備部門だとわかりました。

トップの意向を受けて経営改革をするとまでは聞いていましたが、何をやったらいいかわからない。そこで、本社だけでなく全国の工場や販売部門などに話を聞いて回りました。現場も忙しいですから、ヒアリングに訪れても歓迎されないこともあった。それでも各部門が抱えている課題を探しました。

事務局は1年で「経営企画室」になり、文字通り経営計画の策定や進捗管理に従事しました。手探りだった事務局時代ほどの苦労はなかったです。当社として初めての長期経営構想「3D21」をつくったのもこのころ。今の中期経営計画の基礎となるもので、システムと工場しか経験のなかった私が構想の策定を通じて経営全般を知ることができました。

米国へ大豆産地の視察に訪れたこともある。

経営企画室時代に米国の中西部を訪れ、食用油の原料である大豆の大産地を視察しました。当社は原料を海外から買い付けており、原料購入は収益を変動させる根幹の事業です。そこで、産地から集荷、物流まで幅広く見て回ったのです。

訪れたのはネブラスカ州やアイオワ州、五大湖のほとりのあたりです。さらに出荷が行われるミシシッピ州まで、2週間近くかけて商社の人に案内してもらい、見学しました。大豆畑の広大さには本当にびっくりしました。飛行機でずっと飛んでいっても畑が途切れないほどなのです。

再びシステム部門へ。部下にパソコンの分解を命じる。

95年にシステム企画推進室で部長に当たる室長になりました。当時、部下にはパソコンの分解・組み立てを命じたものです。命じられた方は何の役に立つか不思議に思ったかもしれない。でも、プログラムやソフトだけでなく、どういった仕組みになっているのか、ハード面も理解することで全体像を把握する大切さを学んでほしかった。

以前にいたシステム部門で社員向けにプログラミング研修を行っていたとき、私も内心「この言語を使う時代はそんなに長くないだろうな。こんな教育をやってていいのかな」という不安はありました。しかし、IT(情報技術)を社内で広く普及させる効果はあったと思います。

いまやパソコンですらなく「IoT」、あらゆるものをインターネットにつなげて工場や販売の管理もしていく時代です。プログラミング言語などIT自体は時代とともに陳腐化しても、システム的な思考は残る。2011年に社長になり、事業構造改革に取り組み始めましたが、システム畑にいたときの経験が生きていると感じます。

〈あのころ〉
 バブル崩壊で消費が低迷した1990年代、食品業界も余波は免れられなかった。日清製油は91年に経営企画室を立ち上げ、97年にはリストラを行うなど経営合理化を積極的に進めたが、98年度に赤字に転落する。2002年には製油2社と経営統合し、日清オイリオグループが誕生する。
[日本経済新聞朝刊2016年5月3日付]

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